三男が大学に合格し、晴れて三人の息子たちが全員大学生になることになった。(泣笑)
嬉しいが、苦しい。苦しいが、嬉しい。先が見えないと言うか、見ないようにしている・・・感じ。
そこで、息子たちと旅に出ることにした。
この機を逃したら、息子三人揃って旅に出ることはないかもしれない・・・と思い、無理やり母の27回忌法要の予定まで組んだ。
アタシが無茶なプランを組むことは、息子たちも想像はついていたと思う。
が、予定表を渡しても何も言わず従うのも、アタシの息子だという諦めがあるからだろう。
実は、こうしてジムニーに四人乗って旅に出るのは初めてではない。
長男が小3、次男が小1、三男が年長の時に、夏休みのビックイベントとして、秋田から姉の車であるジムニーに乗り込み、5万円握りしめ北海道に渡ったことがある。
あの時のことは「命がけ旅行」と、今でも息子たちに言われている。
5万円もあれば、いろんなことできるかな~と軽い考えのアタシだったが、4人で遊ぶには少なすぎた。
フェリーで、苫小牧まで行き富良野~小樽~夕張~札幌~ニセコ~函館とキャンプしながら、予定も立てずに回った。
山奥の「熊出没!危険!」と言う看板がある道に迷い込み、真っ暗な中途方に暮れた時、「知らな~いま~ちを旅してみた~い♪ど~こかと~くへ行き~たあい~♪」と口ずさむアタシ。
その曲は、息子たちの恐怖心を煽り、しばらくトラウマとなり、次男はその曲を聞くと恐怖でチビるようになった。
キャンプ場で、キツネに食料を狙われ、夜も寝ないで戦った日もあった。
実家からこっそり持ってきたお米で食いつないでいたが、物欲しそうにしている息子たちに、トマトやとうきびなど分けてくれる地元民に救われた。
ある朝、起きると次男と三男がいない。しばらく待つと、満面の笑顔で、Tシャツをめくり上げたとこに枝豆をいっぱい入れて戻ってきた。
話を聞くと、隣の牛舎を覗いていたらおじさんにおいでと呼ばれ、乳搾りと枝豆の収穫をお手伝いし、お礼に牛の乳を直飲みし放題(本当はダメなんだけど)と枝豆のおみやげを頂いたらしい。
「お!よくやった!」と褒めると、「お腹をすかしたお母さんが待ってるって言ったらくれたんだよ~!」と言うので、その牧場の前は避けて移動した。(^_^;)
(お腹をすかしたお母さんがこんなガタイじゃ、申し訳なさすぎ・・・)
一番楽しみにしていたのは、ラフティング。
小学校一年以上しか乗れないと言われ、三男は初めて年齢詐称をした。
本人がサインをしなければいけない書類があり、字がかけない三男がミミズのようなサインをし「お兄ちゃんと僕は今日だけ同じ年だよ!」と言っちまったが、乗せてくれた。
最終日は、テントを張っていると天気が荒れてきて、近くで民宿をやっているご夫婦が危ないからうちにおいでと言ってくれて、カレー代だけ払って泊めてもらった。
しかも、温泉に連れて行ってくれてたり、優しさに甘えっぱなしで。
帰りのフェリーでは、250円しか持っておらず、一杯のカップラーメンを三人で食べて「お母さんは汁だけでいいよ~」なんてカッコつけていったけど「本当に汁しかない!」と怒ってみたりして。
残り50円握りしめ実家に戻ったら、「お腹すいたーーー!!」しか言わない息子たちの前で、こっぴどく怒られたアタシだった。
と、言う訳で、おのくんの里帰りも兼ねて、朝5時に息子たちを叩き起こし、いざ出発!
いや~~大きくなったな~~~!あ、アタシもだけど、息子たち・・・あの頃は、ジムニー広かったのに、今は前のシートの背もたれに膝があたってぎゅうぎゅう。
でも、どうしてもジムニーに拘りたかった。
常磐道を通り、避難区域だった楢葉で休憩。
高速沿いに、黒い除染袋を沢山見た。
瓦を直していない家々。
ガイガーカウンターの数値が、異常値を知らせていた。
浪江で降りて、海岸線の村上海岸に。
ゴーストタウンになっている浪江町。
イノシシにこそ出遭わなかったが、自宅の入り口のシャッターや、脇道が通行止めになっていたり、点滅信号、廃墟になっている住宅や店舗、雑草生えまくりのガソリンスタンド。
ここは・・・なんだ?現実?
そこを過ぎると、今度は除染作業員と工事事務所が。
やっと、人が見えてきても、6号線沿いの建物は津波をかぶり、半壊状態もまだまだある。
海岸へ向かうと、湿地帯が海まで続く。
違和感。
沢山のダンプが行き交い、まだ防波堤や海岸線整備工事はなかなか進んでない様子。
津波で壊れたお家は、もうそんなに残ってはいなかったが、初めて見る崩壊した家や基礎しかない家の跡は、衝撃的だったようだ。
一番衝撃的だったのは、ピンクのリボンの結ばれた棒。
自衛隊の方がご遺体を見つけた印。
まだ、あった。あちこちに、刺さっていた。
「5年も経っているのに・・・」とつぶやいていた。
原町に向かうと、そこは普通の町並みで、それも意外な感じに思ったようだ。
アタシのオススメ凍天を初めて食べて、気に入った様子。
次に向かったのは、仮設住宅から復興住宅に移ってから元気なくなった公子さん宅。
公子さんは、アタシが初めて南相馬のボランティアを始めた時に、チラシ配りやわからないことを教えてくれた方で、ずっと仲良くしてる。
ただ、仮設にいた頃は、ボランティアの受入れのお手伝いなどで忙しかったのに、復興住宅で旦那様と二人になり他の人との交流がなくなってから、転んで腰を痛めたことも重なり、引きこもり状態になっていた。
まだ、台所にたてるようになったばかりの公子さんだったが、大勢でお邪魔して無理をさせてしまった。
でも、本当に嬉しそうにおしゃべりをして、初めて逢う息子たちに震災時の話を語ってくれた。
近所で売っている美味しい舞茸おこわや、息子たちにと唐揚げなど準備してくれ、楽しい時間を過ごすことができた。
息子たちも、真剣に公子さんの経験したお話を聞いていた。
初日のメインのミッションは、幸子さんの小高のご自宅のお掃除。
公子さんご夫婦と別れ、大高へ。
幸子さんは嬉しそうに待っていた。
5年間放置されたご自宅は、これから幸子さんとお孫さんで二人暮らしになるそうで、まだまだ片付いていない。
大工さんだった旦那様が作ったその家は14LSDK?くらいの豪邸で、昨年帰りたいと願い続けながら旦那様は旅だった。
片付けは、当然幸子さんがするしかない。
今回は、粗大ごみや重たいものの移動を息子たちが手伝った。
そして、見えてきた床を掃除機をかけ、水拭き。
ネズミの糞尿で汚れている床を綺麗にするのは、なかなか進まなかった。
何部屋か片付いたとこで、幸子さんが息子たちを温泉に連れて行きたいと言ってくれ、みんなで温泉へ。
今夜は、仮設住宅の談話室で雑魚寝だ。
オバ様方が手料理を振る舞ってくれ、息子たちは初めて仮設住宅に泊まった。
また、旦那様のお話や、仮設での苦労話、お孫さんの自慢話しなど、沢山聞かせてくれた。
息子たちは、何を感じ、何を思っているのだろう。
久しぶりに、四人で布団を並べて寝たが、くたびれて会話もしないであっという間に爆睡した母であった。
嬉しいが、苦しい。苦しいが、嬉しい。先が見えないと言うか、見ないようにしている・・・感じ。
そこで、息子たちと旅に出ることにした。
この機を逃したら、息子三人揃って旅に出ることはないかもしれない・・・と思い、無理やり母の27回忌法要の予定まで組んだ。
アタシが無茶なプランを組むことは、息子たちも想像はついていたと思う。
が、予定表を渡しても何も言わず従うのも、アタシの息子だという諦めがあるからだろう。
実は、こうしてジムニーに四人乗って旅に出るのは初めてではない。
長男が小3、次男が小1、三男が年長の時に、夏休みのビックイベントとして、秋田から姉の車であるジムニーに乗り込み、5万円握りしめ北海道に渡ったことがある。
あの時のことは「命がけ旅行」と、今でも息子たちに言われている。
5万円もあれば、いろんなことできるかな~と軽い考えのアタシだったが、4人で遊ぶには少なすぎた。
フェリーで、苫小牧まで行き富良野~小樽~夕張~札幌~ニセコ~函館とキャンプしながら、予定も立てずに回った。
山奥の「熊出没!危険!」と言う看板がある道に迷い込み、真っ暗な中途方に暮れた時、「知らな~いま~ちを旅してみた~い♪ど~こかと~くへ行き~たあい~♪」と口ずさむアタシ。
その曲は、息子たちの恐怖心を煽り、しばらくトラウマとなり、次男はその曲を聞くと恐怖でチビるようになった。
キャンプ場で、キツネに食料を狙われ、夜も寝ないで戦った日もあった。
実家からこっそり持ってきたお米で食いつないでいたが、物欲しそうにしている息子たちに、トマトやとうきびなど分けてくれる地元民に救われた。
ある朝、起きると次男と三男がいない。しばらく待つと、満面の笑顔で、Tシャツをめくり上げたとこに枝豆をいっぱい入れて戻ってきた。
話を聞くと、隣の牛舎を覗いていたらおじさんにおいでと呼ばれ、乳搾りと枝豆の収穫をお手伝いし、お礼に牛の乳を直飲みし放題(本当はダメなんだけど)と枝豆のおみやげを頂いたらしい。
「お!よくやった!」と褒めると、「お腹をすかしたお母さんが待ってるって言ったらくれたんだよ~!」と言うので、その牧場の前は避けて移動した。(^_^;)
(お腹をすかしたお母さんがこんなガタイじゃ、申し訳なさすぎ・・・)
一番楽しみにしていたのは、ラフティング。
小学校一年以上しか乗れないと言われ、三男は初めて年齢詐称をした。
本人がサインをしなければいけない書類があり、字がかけない三男がミミズのようなサインをし「お兄ちゃんと僕は今日だけ同じ年だよ!」と言っちまったが、乗せてくれた。
最終日は、テントを張っていると天気が荒れてきて、近くで民宿をやっているご夫婦が危ないからうちにおいでと言ってくれて、カレー代だけ払って泊めてもらった。
しかも、温泉に連れて行ってくれてたり、優しさに甘えっぱなしで。
帰りのフェリーでは、250円しか持っておらず、一杯のカップラーメンを三人で食べて「お母さんは汁だけでいいよ~」なんてカッコつけていったけど「本当に汁しかない!」と怒ってみたりして。
残り50円握りしめ実家に戻ったら、「お腹すいたーーー!!」しか言わない息子たちの前で、こっぴどく怒られたアタシだった。
と、言う訳で、おのくんの里帰りも兼ねて、朝5時に息子たちを叩き起こし、いざ出発!
いや~~大きくなったな~~~!あ、アタシもだけど、息子たち・・・あの頃は、ジムニー広かったのに、今は前のシートの背もたれに膝があたってぎゅうぎゅう。
でも、どうしてもジムニーに拘りたかった。
常磐道を通り、避難区域だった楢葉で休憩。
高速沿いに、黒い除染袋を沢山見た。
瓦を直していない家々。
ガイガーカウンターの数値が、異常値を知らせていた。
浪江で降りて、海岸線の村上海岸に。
ゴーストタウンになっている浪江町。
イノシシにこそ出遭わなかったが、自宅の入り口のシャッターや、脇道が通行止めになっていたり、点滅信号、廃墟になっている住宅や店舗、雑草生えまくりのガソリンスタンド。
ここは・・・なんだ?現実?
そこを過ぎると、今度は除染作業員と工事事務所が。
やっと、人が見えてきても、6号線沿いの建物は津波をかぶり、半壊状態もまだまだある。
海岸へ向かうと、湿地帯が海まで続く。
違和感。
沢山のダンプが行き交い、まだ防波堤や海岸線整備工事はなかなか進んでない様子。
津波で壊れたお家は、もうそんなに残ってはいなかったが、初めて見る崩壊した家や基礎しかない家の跡は、衝撃的だったようだ。
一番衝撃的だったのは、ピンクのリボンの結ばれた棒。
自衛隊の方がご遺体を見つけた印。
まだ、あった。あちこちに、刺さっていた。
「5年も経っているのに・・・」とつぶやいていた。
原町に向かうと、そこは普通の町並みで、それも意外な感じに思ったようだ。
アタシのオススメ凍天を初めて食べて、気に入った様子。
次に向かったのは、仮設住宅から復興住宅に移ってから元気なくなった公子さん宅。
公子さんは、アタシが初めて南相馬のボランティアを始めた時に、チラシ配りやわからないことを教えてくれた方で、ずっと仲良くしてる。
ただ、仮設にいた頃は、ボランティアの受入れのお手伝いなどで忙しかったのに、復興住宅で旦那様と二人になり他の人との交流がなくなってから、転んで腰を痛めたことも重なり、引きこもり状態になっていた。
まだ、台所にたてるようになったばかりの公子さんだったが、大勢でお邪魔して無理をさせてしまった。
でも、本当に嬉しそうにおしゃべりをして、初めて逢う息子たちに震災時の話を語ってくれた。
近所で売っている美味しい舞茸おこわや、息子たちにと唐揚げなど準備してくれ、楽しい時間を過ごすことができた。
息子たちも、真剣に公子さんの経験したお話を聞いていた。
初日のメインのミッションは、幸子さんの小高のご自宅のお掃除。
公子さんご夫婦と別れ、大高へ。
幸子さんは嬉しそうに待っていた。
5年間放置されたご自宅は、これから幸子さんとお孫さんで二人暮らしになるそうで、まだまだ片付いていない。
大工さんだった旦那様が作ったその家は14LSDK?くらいの豪邸で、昨年帰りたいと願い続けながら旦那様は旅だった。
片付けは、当然幸子さんがするしかない。
今回は、粗大ごみや重たいものの移動を息子たちが手伝った。
そして、見えてきた床を掃除機をかけ、水拭き。
ネズミの糞尿で汚れている床を綺麗にするのは、なかなか進まなかった。
何部屋か片付いたとこで、幸子さんが息子たちを温泉に連れて行きたいと言ってくれ、みんなで温泉へ。
今夜は、仮設住宅の談話室で雑魚寝だ。
オバ様方が手料理を振る舞ってくれ、息子たちは初めて仮設住宅に泊まった。
また、旦那様のお話や、仮設での苦労話、お孫さんの自慢話しなど、沢山聞かせてくれた。
息子たちは、何を感じ、何を思っているのだろう。
久しぶりに、四人で布団を並べて寝たが、くたびれて会話もしないであっという間に爆睡した母であった。
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