世の中は鏡であるとか、他人は鏡であるとかいうのは、結局自分という檻から出られないせいなのよね。世の中にしろ他人にしろ、自分から見えるようにしか見えないわけで、自分の解釈を超えることはない。それは自分を映しているってことよね。その人がそう見えるっていうのは、自分がそうであるってことだったりする。
人は常に自分と対峙させられているのね。目の前にいるその他者は、実は自分なのよ。 . . . 本文を読む
これは夢を素材にしているんだけど、書いているうちにあたしの考えとは関係なく、朝見た夢からどんどん離れていった。書き終わってみればなんということもない、これでは「虔十公園林」である。
書いているうちにあたしの意図とは関係なく内容がズレていくことはよくあることで、そんな時には思うのである。これはおそらく読み手の誰かが必要としていることなんだろう。書き手なんぞというものは実は存在しない。書き手は読み手 . . . 本文を読む
問いに答えよ
そう言われて
皆で
考えた
そこで提出される答えは
なるほど、そうかもしれない
と思わせるものばかり
だけど
どれも真に的を射てはいない
ということも
また
なぜか判ってしまう
どこかで
わたしは賢い
そんな自慢大会になっていることに
誰もが気が付いていた
何かが違う
何かが足りない
誰もが
相手にもしていなかった
愚かしいと思っていた
その人が口を開いた
その素直な答 . . . 本文を読む
異質なものに接すると排除しようとする。対極にあるものは否定する。そんなことしてちゃ、もったいないよ。排除したり否定してたりしちゃ、自分という枠は一向に広がらない。自分の持ち合わせていない要素を取り入れる機会を自ら棄てているだけ。
おそらく怖いのだろう。だから籠城する。異なる存在は敵でしかないのだろう。
しかし籠城していたら、兵糧は尽きるぞ。自滅するだけ。
豊穣は共生から生まれる。異質なものは排 . . . 本文を読む
フランス文学史において「新旧論争」というものがあった。つまり、古代人と近代人のどちらが優れているかという論争のことで、この一大文芸論争はなかなか結着がつかず、ついに十八世紀初頭にまで持ち越されたらしい。
あたしはフランス文学史を知らない。「新旧論争」なんてものがあったなんぞ今初めて知ったようなありさま。なんにも知らないくせにコメントしようというのだから滅茶苦茶もいいところだけど、ま、あたし無責任 . . . 本文を読む
肉体による快楽というものは、とどのつまり性的な快楽なのじゃないかしらん。sexはそのものずばりで言わずもがなだけど、食べるにしろスポーツするにしろね。
肉体に限らず精神もそうだろう。快楽とは性的なのよ、きっと。
世界は愛で出来ている。と言ったら唐突に聞こえるかしら。直観でいえば、でも、そういうことなのよね。
ようは、感じるか感じないかだけよ。世界は愛で満ちているのよ。
じゃ戦争は?
屁理屈に . . . 本文を読む
宮澤賢治は友人への手紙に「これからの宗教は芸術です」と書き送ったらしい。
前後の文章がわからないまま勝手なことを書くのも反則な気もするけれど、ま、いいや。
芸術が宗教なのは当たり前で、宗教が芸術であるとした点がミソなんだろう。でもどちらにしたって一緒のような気もする。始まりは宗教も芸術も特に区別はなかったのだから。
時代が下るにつれ分離してしまって、おもしろみが失くなるね。芸術が個人的な自己 . . . 本文を読む
死別というのは普通に考えれば確かに別れなんだけど、厳密に言えば別れじゃないのよ。厳密に言えばというか、別れの定義次第というかね。
別れるっていうのは関係を断つことなのよ。だから死別は別れじゃない。
普通の感覚だと死んでしまえば二度と会えないんだからそれを別れというんだけど、二度と会えなくても関係と断たれたわけではないんだから死別は別れじゃないのよ。
日常的には様々な別れがあるけれど、その中で関 . . . 本文を読む
ネットワーク社会というけれど、社会とはそもそもネットワークである。ま、今の社会をことさらネットワーク社会というのは歴史上ここまでネットワークが高密度化された社会がなかったからだろうけどね。
だいたいね、ネットワークなんぞということはどんなものにおいても当たり前なわけよ。社会とか組織とか、そんなものじゃなくても個人においてもそうだもの。人体はネットワークでしょ。ネットワーク作んなきゃ多細胞生物なん . . . 本文を読む
おそらく
完成は
死
を意味する
ならば
未完成は
生
生きるとは
完成へ至る道
未完のまま
生を終えたなら
振り出しに戻る
せめて
次の振り出しは
アドバンテージを持って
リスタート . . . 本文を読む