小松左京「偉大なる存在」(集英社文庫 昭和58年)
SF短編5作を収録。そのなかの「袋小路」について。
前回の川上弘美「大きな鳥にさらわれないよう」と設定として似ているかもしれません。行き詰まっている人類とそれを打開しようとしている人工知能。ま、よくある設定といえば設定なんでしょう。設定は似たようなものですが、描かれていることは違ってまして、「袋小路」は同じく小松左京「神への長い道」を思わせますね。どん詰まりのその先を目指そうという点で。
このあたり、設定は似てても描くものが違うのは個性の差というより男と女の違いかな、なんてことも思います。川上弘美は滅びゆく人類をやさしいまなざしで見守り、小松左京は袋小路で答えを求めて悪あがきをする。男は往生際が悪いですからね。
人間は変われないって話を前回しました。「袋小路」は変われないんじゃなくてパターンが出尽くしたって話。冒頭、ヨーロッパ的思想の批判から始まって(この辺は小説というより評論ですね)、「いかにくりかえし同じ型の思考にはまりこんできたか」にあきれつつも可能性を求めて人工知能(作中、人工知能とは書いてありません。機械脳とかマザー・ブレインと呼んでいます)は理論を発展させるべく努めている。
「同じ型の思考」という限界。どうどうめぐり。どうしてそうなるのかってえと、結局はこの脳を使うしかないからだって、あたくしは考えます。この脳に処理できるようにしか処理できない。この脳における思考の型がある。人間の肉体的限界です。
小説で生物学的頭脳の限界として語られるのは、最大容量と再生産されるにあたり高速度でコピー出来ない、つまり子供には教育が必要ということ。それも生物的頭脳の限界ですが、あたくしは先ほど書いたように、この脳にはこの脳で出来る思考の型があることも限界だと思います。この脳があらゆる思考法に対応出来るとは思えない。仮に宇宙人がいたとして、その宇宙人の脳は当然人類とは別物で、その別物の脳が思考することを人類のこの脳が理解出来るかどうか。OSは脳の構造によって違うんじゃないかしら。OSが違えばインストール可能なアプリも違うしね。
と、まあ、それはさておき、小説では生物学的頭脳に代わるものとして機械脳が描かれ、機械脳は袋小路に入ってる思考を発展させようとしているわけです。「新しい、より発展性のある超パターンの発見が“進化”なのだ」と語られます。機械脳、ブレインは進化しようとしているんですね。「進化は、存在が、歴史的時間の中に存在する場合における不可避的な存在様式だ。」とのことで、だからブレインは進化しようとしてるわけです。
ここでは進化を「より発展性があるパターンの発見」と定義し、その進化が存在様式だとしていますが、どうなんでしょう。諸行無常、変わらないものなど無いという言い方をするなら、変化は存在様式だと言えますが、その変化は必ずしも進化とは言えない気もします。退化する場合だってあるわけですから。時には進化と言っていい変化もあるという程度なら、進化は存在様式だ、は言い過ぎでしょう。言っていいのは変化は存在様式だ、止まりです。
この話はもう少しつづきますが、今回はこのあたりで。
SF短編5作を収録。そのなかの「袋小路」について。
前回の川上弘美「大きな鳥にさらわれないよう」と設定として似ているかもしれません。行き詰まっている人類とそれを打開しようとしている人工知能。ま、よくある設定といえば設定なんでしょう。設定は似たようなものですが、描かれていることは違ってまして、「袋小路」は同じく小松左京「神への長い道」を思わせますね。どん詰まりのその先を目指そうという点で。
このあたり、設定は似てても描くものが違うのは個性の差というより男と女の違いかな、なんてことも思います。川上弘美は滅びゆく人類をやさしいまなざしで見守り、小松左京は袋小路で答えを求めて悪あがきをする。男は往生際が悪いですからね。
人間は変われないって話を前回しました。「袋小路」は変われないんじゃなくてパターンが出尽くしたって話。冒頭、ヨーロッパ的思想の批判から始まって(この辺は小説というより評論ですね)、「いかにくりかえし同じ型の思考にはまりこんできたか」にあきれつつも可能性を求めて人工知能(作中、人工知能とは書いてありません。機械脳とかマザー・ブレインと呼んでいます)は理論を発展させるべく努めている。
「同じ型の思考」という限界。どうどうめぐり。どうしてそうなるのかってえと、結局はこの脳を使うしかないからだって、あたくしは考えます。この脳に処理できるようにしか処理できない。この脳における思考の型がある。人間の肉体的限界です。
小説で生物学的頭脳の限界として語られるのは、最大容量と再生産されるにあたり高速度でコピー出来ない、つまり子供には教育が必要ということ。それも生物的頭脳の限界ですが、あたくしは先ほど書いたように、この脳にはこの脳で出来る思考の型があることも限界だと思います。この脳があらゆる思考法に対応出来るとは思えない。仮に宇宙人がいたとして、その宇宙人の脳は当然人類とは別物で、その別物の脳が思考することを人類のこの脳が理解出来るかどうか。OSは脳の構造によって違うんじゃないかしら。OSが違えばインストール可能なアプリも違うしね。
と、まあ、それはさておき、小説では生物学的頭脳に代わるものとして機械脳が描かれ、機械脳は袋小路に入ってる思考を発展させようとしているわけです。「新しい、より発展性のある超パターンの発見が“進化”なのだ」と語られます。機械脳、ブレインは進化しようとしているんですね。「進化は、存在が、歴史的時間の中に存在する場合における不可避的な存在様式だ。」とのことで、だからブレインは進化しようとしてるわけです。
ここでは進化を「より発展性があるパターンの発見」と定義し、その進化が存在様式だとしていますが、どうなんでしょう。諸行無常、変わらないものなど無いという言い方をするなら、変化は存在様式だと言えますが、その変化は必ずしも進化とは言えない気もします。退化する場合だってあるわけですから。時には進化と言っていい変化もあるという程度なら、進化は存在様式だ、は言い過ぎでしょう。言っていいのは変化は存在様式だ、止まりです。
この話はもう少しつづきますが、今回はこのあたりで。