瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

読書メモ(川上弘美 その3)

2024-09-08 12:49:22 | 本の話
人間は変われない。というか変化を嫌う。という話のつづき。
変化とは自分とは異なる存在の出現ともいえ、ならば変化を嫌うということは異なる存在を排除しようという動きである、とも言えるんじゃないかしら。

「自分と異なる存在を、あなたは受けいれられますか」
「わたしは受けいれるつもりですよ」

というやり取りが作中にありますが、この「受けいれるつもりですよ」と答えた人は異なる存在を目の当たりにしたとき、「かれらはわたしたち現生人類よりもこの地球に適応してゆく可能性が高いのではないかと、おそれ」て、かれらの水源に毒を流し込み、滅ぼします。
この人はこうも語ります。「わたしたちの近種の、かつわたしたちよりも優れたものならば、わたしは受けいれたことだろう。」
さあ、どうでしょうか。「わたしたちよりも優れたもの」に対し敬意を抱けば受けいれたでしょうが、嫉妬を感じたなら叩き潰すことになるでしょう。人間は相手を攻撃する感情にこと欠きません。

異なる存在は受けいれ難い。人間は変わりませんね。ホモ・サピエンスである限りホモ・サピエンスの枠内においてのみ変化は可能ですが、その枠の外に出ることはできません。「変わらない」というより「変われない」んですよ。努力でどうにかできることではありません。ネアンデルタール人がどこまでいってもネアンデルタール人であって、ホモ・サピエンスとは別種であったようにホモ・サピエンスはどこまでいってもホモ・サピエンス。人の革新をなし得るのはホモ・サピエンスとは別種の人類です。わたしたちホモ・サピエンスは戦争を繰り返しながら平和を願う存在でありつづけるだけです。

というような、あたくしの書き方では、この小説が絶望を描いているように読めるかもしれませんが、そうでもありません。岸本佐知子が解説で書きます。

物語はつぎつぎと話者を変え、ときにはひどく酷(むご)たらしいことや胸が苦しくなるようなことも語られていく。けれどもそれらとはべつに、物語全体を通じてもう一つの視線がそこにあるのを感じる。すべてを許し、いつくしむような視線、大きな愛のようなまなざしだ。

この小説は変われない人間に絶望しつつも慈愛で包み込んでいるようなところもあるんですよ。
ま、あたくしは人間が変われないのは肉体的限界だと考えてるので、変わることを期待もしていませんし変わらないことに絶望もしていませんけとね。そういうふうにできている、と受け容れるだけです。不完全ながらもよくやっているんじゃないですかね、人類は。

そもそも完全な存在なんてつまらんですしね。ちょっと間が抜けてるくらいが愛嬌があっていい。
私たちはいろんな問題を抱えてはいますが、だからこそ可愛げがある存在とも言えるんじゃないのかしらね。

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