瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

#133

2013-07-27 23:20:07 | 考える日々
前回、無を捉えてこそ理解したといえると書いたけれど、この無は何も無いということではない。何も無いとは字義通り何も無いのであって、そんなもの捉えようがないではないか、というのが私の考え方。私の云う無とは、実在するが認識できないこと。何も無いのではなく、有るけど知覚出来ない。そんな存在。
認識できないのに実在するって可怪しいじゃん。認識できるから実在するのであって、認識できなければ実在しないでしょ。それは何も無いってことじゃん。いや、まあ、そういう考え方もあるけれど、それはちと我々の認識力を過信してやしないか。認識できないから実在しないとは言い切れないんじゃないかしら。

とはいえ同じことではある。捉えられないという点においてはね。
実在はするが認識できないと定義した無。その無は捉えられない。認識できない故に無と定義されたのだから当たり前。だったら、無を認識できない実在と定義しようが何も無いと定義しようが関係ないようにも思える。どっちにしても捉えられないのが無であることに変わりはない。

だけど実在するなら捉えられる可能性はある。何にも無ければ捉える可能性もないけれど、実在するのだと考えれば少なくとも可能性はある。認識力が足りないだけなのだ。認識の拡大によって、無の何割かは射程距離に入ってくるだろう。でもどうやって拡大するの? 瞑想とか坐禅は、たぶんそういうことをしているんだろう。通常の認識を超えようとすれば通常ではない頭の使い方をするほかない。

ただ、このあたりから私にはわからなくなる。瞑想も坐禅もしたことがないから。
これらの方法で認識を拡大するということは、いわゆる神秘体験になるのかしらね。私には神秘体験というのがわからない。あれはいったい何を体験していることになるのだろう。通常認識できない実在に手が届いたのか、それともただの幻覚か。
禅病というのがある。肺を病むなど肉体に関わることもあるし、幻覚をみるなど精神に関わることもある。道元は坐禅中に菩薩や如来が見えてきたら槍で突き殺せと云う。そんな幻覚に惑わされるなというわけ。悟りはその先にあるらしい。幻覚と悟りの区別はどう見極めるのかしら。坐禅もしないで考えてるだけの私に判るわけもないね。

私は坐禅をしないから禅病になるはずもないけれど、違うことで禅病的にはなりそうだ。ぼんやりするの好きだからね。半覚醒の意識の朦朧とした状態で菩薩や如来を見ないとも限らない。認識が拡大した。無に手が届いた。解ったのだ。悟ったのだ。と、おっちょこちょいの私は勘違いをするに決まっている。剣呑、剣呑。
どうやら、やはり、私はなにもわからないまま死ぬことになるらしい。それはもちろん私個人の能力的限界がほとんどだけど、人類の認識力の限界によるところもあるはず。だけど人類史上、悟った人は数えるほどだろうけど居るには違いなく、だったら人類としての限界ではなく、やはり私の無能のせいか。ま、そんなことだろうとは思っていたよ。私が莫迦なんです、はい。
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