何かと思うにまかせないのが常ですねえ。
三度たく 米さへこわし軟かし 思ふままにはならぬ世の中
なんてえ戯れ歌がありますけど、本当にまあ、思い通りにはいかないもんです。
とはいえ、実のところ思い通りなんじゃないかってぇ思わなくもない、核心の部分ではね。
上記の戯れ歌をよんだ人にしたって御飯(おまんま)を食いたいってぇのが望みの核心でしょう、きっと。御飯が強いの柔らかいのなんざあ些末なことです。思い通りになってないのは些細なことで本筋は思い通りなんじゃないかしらん。
ジェイコブスに「猿の手」ってぇ話がありますが、案外あれは的を射てるのかもしれない。思いがけない形で望みが叶うってぇのは話の面白さを狙ってるだけでしょうけど現実も結構そんな感じがしなくもありません。思うにまかせないといいつつ大事な部分の願いは叶ってる。どうしてこんな酷い目に会うんだ、なんてえことはよくあることで思い通りにならないことを嘆いたりしますけど、酷い目に会うことで核心部分の望みは叶ってるなんてこともあるんじゃないですかねえ。酷い目に会った結果、人との絆を感じるとか健康でいられる幸せを感じるとか。
自分でも自分が本心から望んでいることには気がつかないってこともありがちで、現状をよくよく見返してみれば案外望み通りだったりもするような気がしますがね。
思い通りにならないようでいて実のところ思い通り、筋書き通りなんじゃないかしら、本筋においては。願いの核心は叶ってる。
不本意なことも多いですが、ってぇか不本意なことだらけですけど大事なことは望み通りになってると思います。
yozanema-126さんの気づきのきっかけになり嬉しいです。
コメントを読んでこんなことを思い出しました。
迷いつつ選択したことについて。その選択が正しいのか間違っているのかは分からない。ただその選択が正しかったといえるような生き方をするだけ。
何で読んだか忘れましたが、こんなような意味のことが書いてありました。
受け止め方だったり生き方だったりで意味合いは変わっていくんでしょうね。
お邪魔します。
瓢箪舟さんの思うところとずれているかもしれませんが、
ブログを拝読して
大きな気づきがありましたので
コメントさせていただきます。
私は「自分の身に降りかかってくるものに無駄なものはない」と思って生きてきました。
けれどその考えで
いつもつまずくのは
「では家族が悲惨に命を奪われても無駄なことではない、と思えるのか」ということでした。
瓢箪舟さんの記事がきっかけで
「無駄なものはない」ではなく
「無駄にしてはいけない」ということに気がつきました。
起こったことを無駄にしない、ということなんだなぁ、、と。
そのことが
人のしあわせ、地球のしあわせに
つながるのでは、と思いました。
考えるきっかけをいただき、
ありがとうございます。
私にとっては
とても大きな発見でした。
fight-mさんに比べれば、ぼくが振り返る人生の長さは短いです。が、その短い人生でもそれなりに山や谷はありました。身の丈に合った山や谷だったようで、だからここまでやって来られたと思います。
現在、こうしてブログを書いている余裕もあり、足りているというのが実感です。
ああすれば良かった、こうすれば良かった反省ばかり
です。人は思うように動かない、自分自身にも大波、小
波が襲ってきました。これが生きると言う事かな!と納
得してますが、現在がが良ければ全て良しと思ってい
ます。
返信が長くなりそうなので記事として書きます。
追記
文章の途中で送信されてしまって中途半端になったコメントは非公開にしてあります。
不幸を嘆くのは、ちょいと楽しい気持ちが入っているかも知れません。不幸自慢ていうのも言いますから。中島みゆきの歌なんか聞いていると、ふと思います。
不幸自慢が出来るのは大枠で願いが叶っているからというお話でしょうか。本当に辛い時は、その対処に夢中で幸も不幸も考えてないかもしれません。不幸と呼べるのは、過ぎ去ったから。
私の実感とも合っていますが、世の中にはそうじゃない本当の不幸がある気もします。
今、私の脳裏に浮かんでいるのは、虐待で亡くなった子供たちです。
非常に興味深いご指摘ありがとうございます。
そういっていただくと、ぼくのほうこそ救われる思いがします。
言葉 には
どこか
救いを感じられるような
気がするのです
本心
ありがとうございます