「事件が起こらないように常に監視していてほしいけど、自分が監視されるのは嫌」
「SNSでたくさんの人に注目されたいけど、知らない人に荒らされるのは嫌」
「簡単に情報を入手したいけど、フェイクニュースに騙されるのは嫌」
…なんだか、カレー沢薫さんの連載のサブタイトルみたいになってきましたが…
水戸芸術館で開催中の「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」は、普段、たくさんのネットワークに囲まれて生活する中で感じる、こんなジレンマをテーマにしたような展覧会でした。
監視カメラ社会、フェイクニュース、ブロックチェーン、SNS、炎上etc. 扱われているのは、身近な題材。その題材の「いいよね!」って部分と「嫌だな〜」って部分を両方の極限に振り切って見せるような作品が多く、”面白さ”と”不安”が混ざった、複雑な気分になる展覧会でした。
(「溢れ出した」 / セシル・B・エヴァンス (2016))
例えば、エキソニモの「Live Stream」。2つのディスプレイの前に立つと、そこにいるのは、同じ自分の姿。ライヴ配信の様子のようですが…
(「Live Stream」 / エキソニモ (2018) )
一方は、たくさんの好意的なコメントの嵐! でも、もう一方は、誰にも視聴されていなくてお通夜状態… 同じ”内容”なのになんでこっちばかり?!という妬ましい気分が、認めたくないけど感じてしまって、苦々しい気分になってしまいます。
個人的には普段は映像作品があまり好きではないのですが、この展覧会は映像作品が面白かったのも印象的でした。例えば、デヴィッド・ブランディの「チュートリアル:滅亡に関するビデオの作り方」。”映像の作り方”のチュートリアル動画を模した映像作品ですが、
( 「チュートリアル:滅亡に関するビデオの作り方」 / デヴィッド・ブランディ (2014) )
「まず、素材をYouTubeで20個くらい見繕いましょう」
「言葉の部分は、TEDなんかから引っ張ってくると良いですね〜」
みたいな軽いノリで人の作品をパクっていく様子に「おい!」と、思わずツッコミを入れて笑いながら見ていたのですが…
( 「チュートリアル:滅亡に関するビデオの作り方」 / デヴィッド・ブランディ (2014) )
他人の創作物のつぎはぎに少しずつ手を加えながら手際よく出来上がっていった映像は、フィクションとわかっていても恐ろしくなってきてしまうような映像で、ツギハギなのに説得力のある映像のように見えてきて… 扇情的な動画がインスタントに生産されて行く様子に、徐々に恐怖を覚えてきてしまいます。
ヒト・シュタイエルの「他人から身を隠す方法:ひどく説教じみた教育的MOVファイル」も ”仕事の研修“で見せられるビデオのようなつくりですが…
(「他人から身を隠す方法:ひどく説教じみた教育的.MOVファイル」 / ヒト・シュタイエル (2013) )
"How To ? 監視カメラから身を隠すには?!"
の解は、”物陰に隠れ”たり、顔に色を塗って”背景と同化”したり…
…って、全部一緒じゃないですか!結局カモフラージュするしか逃げ道がないってこと?!と、これまたツッコミを入れたくなってしまいます。
(「他人から身を隠す方法:ひどく説教じみた教育的.MOVファイル」 / ヒト・シュタイエル (2013) )
でも、ここで扱っている「監視」が、軍事的なものをイメージさせることもあって、”結局、地球上のどこにいても逃げられないってこと…?“という恐怖がじわじわと感じられてきました。
そして、最後の展示室にあるレイチェル・マクリーン「大切なのは中身」は、SNS中毒をテーマにした映像作品。
(「大切なのは中身」 / レイチェル・マクリーン (2016) )
盲目的な”データ”の要求、”憧れ”の暴走、ネットの世界が現実を侵して精神を追い詰めてしまうことなどを、ミュージックビデオやweb広告のようなポップな雰囲気で描き出しつつも、ネットの世界で目にしてしまうようなえげつない表現も多数で…妙な気持ち悪さを残しながら会場を出て行く感じになりました…
普段、個人的に現代アートの映像作品が苦手なのは、「長い!暗い!ストーリーがない(わからない)!」のイメージが強いからだったりするのですが、今回の作品はどれも、明快で、目を引くビジュアルで、そしてWeb広告のような“キッチュな”雰囲気がとっつきやすかったように感じました。技術の改善で映像の解像度は上がっているはずなのに、”面白み”を求めると、目に入ってくる映像の解像度はどんどん下がっていくようなジレンマ… なんかそんなところも含めてすごく”今自分がいる世界”を感じられる気分にもなってきました。
(「address」より / 谷口暁彦 (2010-)
webで取得した監視カメラの画像をつぎはぎしてつくったというパノラマ写真。街の隅々や部屋の中(?!)が解像度よく映し出されているのに安心感と恐怖感をともに覚える作品です。)
最後に、ひとつご紹介したいのがエキソニモの「キス、または二台の大型モニタ」。このディスプレイを見て、どう思いますか?
(「キス、または二台のモニタ」 / エキソニモ (2017) )
写真を重ねあわせて見ても「紙が重なっているだけ」って思うし、この作品もぱっと見は「ディスプレイが重なっている」という印象だったのですが。しばらく見ていると、ディスプレイのなかの人の顔が少し揺らぐんです。そうすると、なんだか突如、”キスしてる”っていう生々しさが現れてくるんですよね。
(「キス、または二台のモニタ」 / エキソニモ (2017) )
もし“もっと解像度が高くなったら”、“立体映像になったら”、“双方に感触が伝わるものになっていったら” … 人の顔の画像を重ね合わせる、という同じ行動でも、技術が変わるとその「意味」が変わってくるのかな、と思いを巡らせてしまいました。
比較的、現在顕在化している課題を扱っている作品が多い展覧会でしたが(作品が制作された当時は今ほど顕在化していなかったりするのかもしれませんが…)、このエキソニモの作品は、”その先”にあるかもしれない感覚の変化や課題を考えさせてくれるように感じました。
(画像編集が容易になった今の、写真や絵画のもつ意味の変化を考えさせられる、小林健太の展示風景)
興味深くも、もやもやする展覧会でしたが、この展覧会の後に読んで一番しっくりときたのが、MITメディアラボ 所長の、伊藤穰一さんの「教養としてのテクノロジー」という書籍で、人工知能や身体拡張、ロボットなどの良い面にも触れた上で、以下のような記述がありました。
「人工知能やバイオテクノロジーなどの科学技術により、たしかに人間が触媒(メディアム)になって何でも生み出せるようになるのかもしれません。しかし、そもそも「進化」という視点で見れば、これまでの進化は良いものと悪いものがわかれていません。どのような進化がふさわしいのかは、自然や環境によって決定してきたものです。トランスヒューマンネスには、こうした進化の文脈が欠けており、シンギュラリティと同じように、やはり極端な部分があるのではないか、というのが率直な感想です。」
「ポスト西洋的な流れではありますが、万能のAIロボットを「最後の審判」だとして不幸になると思っている人と、それを歓迎して「世界が天国になる」と思っている人と、両方の意見があります。
日本には「人対神」という視点もないですし、「誰がAIやロボットを支配するのか?」という倫理が欠けています。日本がこうしたテクノロジーの流れに対して、どのように関わっていくことができるのかが、いま問われています。」
新しい技術について、もしそれが実現したらどんなことが起こって、どんな日常に変わるのか?それは自分の望んでいる日常なのか?わたしたちの感じ方や考え方はどう変わるのか?ひとりひとりが、そんな未来を想像することの必要性を見せてくれるような展示でした。
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■「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」展 @水戸芸術館 現代美術ギャラリー
会期:2018年2月10日〜5月6日
時間:9:30〜18:00
休館日:月、2月13日、5月1日 ※ただし2月12日、4月30日は開館
料金:一般 800円 / 中学生以下、65歳以上は無料
インターネットが普及し始めてから約20年が経った現在。スマートフォンやSNS、仮想通貨などが生活に浸透し、ロボットや人工知能の技術も目覚ましい進歩を遂げている。「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」は、こうした時代の変化をとらえ、新しい表現を開拓するアーティストたちによる展覧会だ。
参加作家:デヴィッド・ブランディ、小林健太、サイモン・デニー、セシル・B・エヴァンス、エキソニモ、レイチェル・マクリーン、ヒト・シュタイエル、谷口暁彦
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