自転車屋男 2

神戸で自転車屋を営み
4年半スナックを営んだ
変な男の人生色々日記

「競馬の日」!!「日本中央競馬会発足記念日」!!

2020-09-16 14:21:03 | 地域
「9月16日(水)」

「競馬の日」
「日本中央競馬会発足記念日」

「1954年(昭和29年)9月16日」

日本中央競馬会 (JRA) が
農林省(現在の農林水産省)の監督の下で発足した。

これにより民営競馬がスタートした。

それまでは、
農林省蓄産部が運営する国営競馬だった。

日本中央競馬会は
日本中央競馬会法に基づく特殊法人で、
公共性の強い法人で
農林水産大臣の監督下に置かれている。

日本中央競馬会は
事務局を東京都港区六本木に置き、
その資本金は政府全額出資で約49億円となっている。

主な目的には、
競馬の健全な発展、畜産の振興、
国や地方公共団体の財源の確保、馬文化の普及、
スポーツとしての楽しみの提供などがある。

主催する競馬は馬券の売り上げ、
レースの質など世界的にも高い水準を誇っている。


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「一乗谷の戦い」!!「朝倉氏」滅亡」!!

2020-09-16 14:07:35 | 地域
「9月16日(水)」

「一乗谷の戦い」

「1573年9月16日」
(天正元年8月20日)

朝倉義景が自決し、朝倉氏が滅亡。

一乗谷城の戦い
(いちじょうだにじょうのたたかい)は、
天正元年8月(1573年9月)に
織田信長と朝倉義景の間で行なわれた
戦国時代の合戦である。

但し一乗谷城での攻防は極めて限定的であったため、
激戦地の名を冠して刀根坂の戦い(とねざかのたたかい)とも呼ばれる。

13日、
大嶽砦の陥落を知った義景は形勢を判断。

織田軍総勢3万に対し、朝倉軍は2万。

朝倉勢は主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、
勝ち目がないことを悟った義景は撤退を決断した。

朝倉軍が撤退を開始するや、
信長は本隊を率い、
自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃した。

しかし
織田方の先手武将達は、
事前通達を受けていたにも関わらず
信長より遅れてしまい、後に叱責を受けている。

元々
近江出兵に際し家中の意思統一も成されず、
織田方の内部懐柔工作などで
戦意もない朝倉軍は、
退却戦の混乱に織田軍の攻撃を受けて皆殺しにされた。

義景は疋田城への撤退を目標とし、
経路である刀根坂に向かったが、
ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受けた。

余呉から刀根坂、敦賀にかけての撤退中、
朝倉軍は織田軍に押され、
織田方の記録に拠れば3000人以上
(但し「武将38人、兵3800人」などと、
誇大な数字であることを感じさせる記録ではある)
と言われる死者を出した。

朝倉軍もある者は踏み止まり、
ある者は反転して織田方を押し戻すなど
果敢に奮闘したが、
北庄城主朝倉景行や当時17歳の朝倉道景といった
一門衆を含め、山崎吉家、斎藤龍興、河合吉統など
大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう
武将が多数戦死した。

但し、斎藤龍興には生存説が複数存在している。

織田軍は
翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。

これにより
朝倉軍の近江遠征軍、
つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅した。

義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還した。

15日から16日にかけて、
信長は味方の将兵を労うと同時に休息を取らせた。

そして
17日には大軍を整え、
義景の元家臣前波吉継を案内役にして越前に攻め入った。

一方、
義景は15日に一乗谷(一乗谷城)に帰陣したが、
味方の劣勢を知った
国内の武将らで馳せ参じるものもなく、
もはや義景の手勢は近習含め
わずか500人となってしまっていたと伝えられる。

ここにおいて、
従弟で朝倉氏の同名衆筆頭の大野郡司朝倉景鏡が、
一乗谷を捨てて越前北部の大野郡にて
形勢の建て直しを図るように進言した。

大野郡は盆地であり守るに堅く、
当時朝倉氏と同盟関係にあった
平泉寺を頼りに再起を期そうと促した
(平泉寺は勇猛で知られる僧兵集団があり、
近江出兵で丁野城の守備についていた)。

しかしこの時、
すでに平泉寺の僧兵も所領安堵などを条件として
信長と内通していた
(木下秀吉による事前工作と伝えられる)。

18日、
信長は一乗谷の市街地を襲撃制圧して焼き払った。

一乗谷突入の際の信長方で、
最も際立った働きをしたのは
当主武田元明を朝倉の捕虜にされていた
若狭武田氏旧家臣らであったと伝えられる。

この時、
朝倉氏になおも忠義を尽くそうとする者数百名が
織田軍と戦ったと伝えられている。

それより以前に
手勢のみを率いて一乗谷を逃れ、
景鏡に促され大野郡へと移動していた
義景は20日、
仮の宿所として景鏡に指定されていた六坊賢松寺を、
周到に主を裏切った景鏡の手勢200に囲まれた。

近習らが奮戦・討ち死にする中で
義景は自刃、景鏡は義景の首を持参し信長に降参した。

義景の嫡男・愛王丸や義景の愛妾小少将など、
義景の極近親者は降伏を条件に助命され捕らえられた。

義景近習の一部はあえて殉死せずに生き残り、
彼らの助命交渉やその後の世話をしようと決めていたが、
織田軍により義景の係累たちは護送中に処刑された。

一部の武将、一族衆らは織田方に参したが、
特に重く用いられるものはなかった。

またその他の親族衆・武将らがその後、
反乱を企てたり、一向一揆とともに決挙したりしたが、
数年後、越前一向一揆殲滅のため
越前に再侵攻した信長の前には無力であった。

この後、
織田方は軍を北近江に返し小谷城を攻撃、
浅井氏を滅ぼした。


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