「9月17日(木)」
「岐阜城」
「1567年9月17日」
(永禄10年8月15日)
織田信長が
斎藤龍興の居城だった稲葉山城に移り
岐阜城と改称。
岐阜城(ぎふじょう)は、
岐阜県岐阜市(旧・美濃国井之口)の
金華山(稲葉山)にあった日本の城(山城跡)。
織田信長が、
斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、
新たに造営したものが岐阜城である。
城跡は岐阜城跡(ぎふじょうあと)として金華山と、
その山塊の2,091,602.74平方メートルが
国の史跡に指定されている。
その範囲は、現在の国有林の範囲に符合する。
1201年(建仁元年)
二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされる。
続いて行政の娘婿・佐藤朝光、
その子伊賀光宗、光宗の弟・稲葉光資が
砦の主となり支配。
二階堂行藤の死後、廃城となる。
15世紀中頃 - 美濃守護代・斎藤利永が、
この城を修復して居城とする。
1525年(大永5年)
斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が
謀反を起こして稲葉山城を攻撃。
長井氏の支配下となる。
1533年(天文2年)
新左衛門尉が没すると、
その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が
後を継ぎ、城主となる。
1539年(天文8年)
守護代になっていた斎藤利政が、
稲葉山山頂に城作りを始める。
1541年(天文10年)
利政が守護の土岐頼芸を追放。
1547年(天文16年)
織田信秀、頼芸派の家臣と
稲葉山城下まで攻め入るも大敗(加納口の戦い)。
1554年(天文23年)
利政、
城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。
1556年(弘治2年)4月
義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。
1561年(永禄4年)5月
義龍の急死により、
斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。
同年6月
十四条の戦いに勝利した
織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退。
1564年(永禄7年)2月
斎藤氏の家臣であった
竹中重治と安藤守就が造反して挙兵。
稲葉山城を攻める。
龍興らは城を捨て鵜飼山城へ逃げ、
竹中らが城を半年間占拠する。
1567年(永禄10年)9月
かねてから美濃攻略を狙っていた
織田信長が西美濃三人衆の内応により
稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。
龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、
伊勢長島へ逃亡した。
同年
信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、
古代中国で周王朝の文王が
岐山によって天下を平定したのに因んで、
城と町の名を「岐阜」と改めた。
この頃から信長は
「天下布武」の朱印を用いるようになり、
本格的に天下統一を目指すようになった。
@サイクルプラザ・イレブン@
●当店ホームページ
https://cycle-plaza-eleven.com
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「岐阜城」
「1567年9月17日」
(永禄10年8月15日)
織田信長が
斎藤龍興の居城だった稲葉山城に移り
岐阜城と改称。
岐阜城(ぎふじょう)は、
岐阜県岐阜市(旧・美濃国井之口)の
金華山(稲葉山)にあった日本の城(山城跡)。
織田信長が、
斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、
新たに造営したものが岐阜城である。
城跡は岐阜城跡(ぎふじょうあと)として金華山と、
その山塊の2,091,602.74平方メートルが
国の史跡に指定されている。
その範囲は、現在の国有林の範囲に符合する。
1201年(建仁元年)
二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされる。
続いて行政の娘婿・佐藤朝光、
その子伊賀光宗、光宗の弟・稲葉光資が
砦の主となり支配。
二階堂行藤の死後、廃城となる。
15世紀中頃 - 美濃守護代・斎藤利永が、
この城を修復して居城とする。
1525年(大永5年)
斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が
謀反を起こして稲葉山城を攻撃。
長井氏の支配下となる。
1533年(天文2年)
新左衛門尉が没すると、
その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が
後を継ぎ、城主となる。
1539年(天文8年)
守護代になっていた斎藤利政が、
稲葉山山頂に城作りを始める。
1541年(天文10年)
利政が守護の土岐頼芸を追放。
1547年(天文16年)
織田信秀、頼芸派の家臣と
稲葉山城下まで攻め入るも大敗(加納口の戦い)。
1554年(天文23年)
利政、
城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。
1556年(弘治2年)4月
義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。
1561年(永禄4年)5月
義龍の急死により、
斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。
同年6月
十四条の戦いに勝利した
織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退。
1564年(永禄7年)2月
斎藤氏の家臣であった
竹中重治と安藤守就が造反して挙兵。
稲葉山城を攻める。
龍興らは城を捨て鵜飼山城へ逃げ、
竹中らが城を半年間占拠する。
1567年(永禄10年)9月
かねてから美濃攻略を狙っていた
織田信長が西美濃三人衆の内応により
稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。
龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、
伊勢長島へ逃亡した。
同年
信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、
古代中国で周王朝の文王が
岐山によって天下を平定したのに因んで、
城と町の名を「岐阜」と改めた。
この頃から信長は
「天下布武」の朱印を用いるようになり、
本格的に天下統一を目指すようになった。
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