「10月4日(金)」
「白村江の戦い」
「663年10月4日」
(天智天皇2年8月27日)
白村江の戦いが始まる。
白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、
はくすきのえのたたかい)は、
天智2年8月(663年10月)に
朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、
日本・百済遺民の連合軍と、
唐・新羅連合軍との戦争のことである。
白村江の戦いでの敗北は、
モンゴル帝国との元寇と、
アメリカ合衆国などの
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による
外国占領を招いた第二次世界大戦と並び、
日本列島が海外勢力の占領下に入る
危険性が非常に高まった戦争であった。
この敗戦により
倭国は日本列島の領土は奪われなかったものの、
朝鮮半島の領地・権益を失い、
外交政策・国防体制・政治体制など
統治システムの基礎部分を
根本的に変革する必要に迫られた。
唐との友好関係樹立が模索されるとともに
急速に国家体制が整備・改革され、
天智天皇の時代には近江令法令群、
天武天皇の代には
最初の律令法とされる
飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、
律令国家の建設が急いで進み、
倭国は「日本」へ国号を変えた。
白村江の敗戦は
倭国内部の危機感を醸成し、
日本という新しい国家の体制の建設を
もたらしたと考えられている。
665年に
唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が
戦後処理の使節として来日し、
3ヶ月後に劉徳高は帰国した。
この唐使を送るため、
倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。
667年には、
唐の百済鎮将劉仁願が、
熊津都督府
(唐が百済を占領後に置いた5都督府のひとつ)の役人に命じて、
日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた。
天智天皇は唐との関係の正常化を図り、
669年に河内鯨らを正式な遣唐使として派遣した。
百済の影響下にあった耽羅も戦後、
唐に使節を送っており、
倭国・百済側として
何らかの関与をしたものと推定される。
670年頃には
唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、
遣唐使の目的の一つには風聞を確かめる為に
唐の国内情勢を探ろうとする
意図があったと考えられている。
天武期・持統期に一時的な中断を見たものの、
遣唐使は長らく継続され、唐からの使者も訪れ、
その後の日本の外交は唐との友好関係を基調とした。
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https://cycle-plaza-eleven.com
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http://blog.goo.ne.jp/charinko_2008/
よろしくお願いします。
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天智2年8月(663年10月)に
朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、
日本・百済遺民の連合軍と、
唐・新羅連合軍との戦争のことである。
白村江の戦いでの敗北は、
モンゴル帝国との元寇と、
アメリカ合衆国などの
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による
外国占領を招いた第二次世界大戦と並び、
日本列島が海外勢力の占領下に入る
危険性が非常に高まった戦争であった。
この敗戦により
倭国は日本列島の領土は奪われなかったものの、
朝鮮半島の領地・権益を失い、
外交政策・国防体制・政治体制など
統治システムの基礎部分を
根本的に変革する必要に迫られた。
唐との友好関係樹立が模索されるとともに
急速に国家体制が整備・改革され、
天智天皇の時代には近江令法令群、
天武天皇の代には
最初の律令法とされる
飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、
律令国家の建設が急いで進み、
倭国は「日本」へ国号を変えた。
白村江の敗戦は
倭国内部の危機感を醸成し、
日本という新しい国家の体制の建設を
もたらしたと考えられている。
665年に
唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が
戦後処理の使節として来日し、
3ヶ月後に劉徳高は帰国した。
この唐使を送るため、
倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。
667年には、
唐の百済鎮将劉仁願が、
熊津都督府
(唐が百済を占領後に置いた5都督府のひとつ)の役人に命じて、
日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた。
天智天皇は唐との関係の正常化を図り、
669年に河内鯨らを正式な遣唐使として派遣した。
百済の影響下にあった耽羅も戦後、
唐に使節を送っており、
倭国・百済側として
何らかの関与をしたものと推定される。
670年頃には
唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、
遣唐使の目的の一つには風聞を確かめる為に
唐の国内情勢を探ろうとする
意図があったと考えられている。
天武期・持統期に一時的な中断を見たものの、
遣唐使は長らく継続され、唐からの使者も訪れ、
その後の日本の外交は唐との友好関係を基調とした。
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