真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

悲しき帝国陸軍 高原 友生 2000/08

2024-02-07 | 読書-歴史
悲しき帝国陸軍 | 昭和館デジタルアーカイブ

悲しき帝国陸軍

昭和以降、国を憂い、行動し得る責任ある組織は陸軍しか存在しなかったが、真に賢明な指導層を欠いたのもまた陸軍だった―三代に亙る軍人家系にして戦後、商社マンとして名を...

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第1章 旅順攻撃戦―祖父・石原廬の秘録
第2章 生い立ち―世界恐慌前後
第3章 幼年学校から士官学校へ―将校生徒教育について
第4章 大東亜戦争 その一―最下級士官の所感
第5章 大東亜戦争 その二―ビルマ戦線、戦闘の実相
第6章 復員―戦後の世相
第7章 来世紀への期待―ミャンマーの将来を思いつつ

(母方祖父・石原廬のカタカナ交じり文章は飛ばしました)
石原廬|皇居三の丸尚蔵館 The Museum of the Imperial Collections, Sannomaru Shozokan
石原廬 - Shirakaba.link

父の岩藤二郎(海軍の機関設計担当、最終は技術少将)が石原庵の次女静と結婚。
ん?いつ高原姓にって書いてあったっけ?
The page 31.(ヒト−造機科士官)

高原友生 たかはら・ともお 1925〜2009 - IT人物辞典
本書が先で、『商戦』はその後なのね。
商戦―伊藤忠 火の玉社員の半生記 高原 友生 2002/03 - 真似屋南面堂はね~述而不作

著者の高原友生氏は中学1年を経て東京陸軍幼年学校(四二期)へ、陸軍士官学校(五七期)卒で、歩兵第五十八連隊旗手。終戦時20歳で陸軍中尉だった。
少尉任官は19歳時なので、最年少の正規の陸軍士官だったことに。
一部の少年兵 - Yahoo!知恵袋はいたけど。

海軍と言えば、松永真理女史のお父上の手記があった思い出のネイビーブルー - 私の海軍生活記 松永市郎 1977/05 - 真似屋南面堂はね~述而不作.
陸軍の高原氏が大正2ケタ生まれで、海軍の松永氏は大正1ケタだが、士官養成校の様子の違いは興味深い。

なお、著者が伊藤忠商事常務からCRC総研社長に転じた後で、海軍兵学校跡を見学する機会があり、前任社長で元零戦乗りの塚本祐造 つかもと・ゆうぞう/1918~1993 - IT人物辞典に、江田島の佇まいは、女学校か修道院ではないか思ったと指摘した由。荒々しい相武台と比べてなんとお上品なことか、というw

連隊旗手というのがどれほど名誉なことだったのか、イメージしきれないところがあるものの、相当名誉なことで、自他ともに認めるエリートだったとわかる。
連隊旗なんて、普段はしまっておくのかと思っていたが、なんと常時捧げていたのか!
それを見た兵士に気合が入るというのは、天皇から直々に交付されたものであり、天皇の代理が旗であるという理屈だった、という意味?
軍旗 - Wikipedia
敗戦により、命令が来て、作法に則って軍旗を「奉焼」する。

著者がもう少し早く生まれていれば、陸大に進み、参謀や中~高級指揮官として活躍していただのろう。
が、20歳で終戦となり、21歳で復員、一浪後に(旧軍人の比率制限を突破して)東京大学に進学。
幼年学校から陸士時代の専攻外国語はロシア語で(英語はなかった)、英単語の暗記に注力した由。

ほほぉ

なぜ最後の帝国軍人はビルマ軍事政権を好んだのか?

インパール作戦の少ない生き残りの兵士の中には「ビルマ好き」になる者が多い。そんな1人、故高原友生氏(以下敬称略)は陸軍士官学校57期の出身。

Wedge ONLINE(ウェッジ・オンライン)

 


2009年12 月20日 (日曜日)
高原友生さん亡くなる
「同書は日露戦争に従軍した彼の義理の父親だったか祖父だったかの遺書というか参謀本部に握りつぶされた報告書の話から始まる」
~正解は母方の祖父。

印象深かったくだりを書き出そうかと思っていたところ、先例を見つけたのでリンクで済ますとするか。
対話形式なのは、国債市場を語る「牛熊」みたいなもんか?
308.帝国陸軍と陸上自衛隊(8)参謀本部、陸軍省、教育総監部の要職を幼年学校出身者が多く占めた - 意外な戦史を語る~ カモメとウツボのメクルメク戦史対談:楽天ブログ
(ウツボ)高原氏によると、幼年学校では、エリート教育というか、一般とは違う優越的な気持ちを、誇りとともに自然にたたきこんでゆく教育がなされた。
(カモメ)だが、エリート意識を持ち「将校中の将校」を目指しての修養は、何か異常な畸形的なこちこちの陸軍将校タイプを塑成していったというようなものではなかったということです。

(ウツボ)幼年学校と中学校出身者の対立はあまり顕著なものではなかったが、参謀本部、陸軍省、教育総監部の要職を幼年学校出身者が多く占めたことは事実だった。
(ウツボ)明治天皇は、三国干渉の後、特に幼年学校生徒の語学をドイツ、フランス、ロシアの三ヶ国語のいずれかにせよとされ、英語はその中になかった。
(カモメ)このことから、アメリカ、イギリスへの駐在武官が中学出身者となり、大本営、陸軍省の中枢が幼年学校出身者で占められていたため、正しい情報が流されても受けつけぬ弊をみたことも否定できませんね。

作戦要務令 - Wikipediaについて
『作戦要務令』の思想 p103~
・「奇襲」を重んじる。寡を以て衆を倒す兵の運用、物量の乏しい軍に必要な精神力、これらを強調しすぎ(強調せざるを得なかった日本陸軍の悲しさ)
・「包囲」の思想・・・空に対する配慮が皆無、これは近代戦においては致命的な欠陥。制空権に考えが及ぶことは皆無。
・「補給」が全く考慮の外にあったこと。

指導者の責任 p150~
「我が国は敗けるべくして敗けた。あれ以上にいったいどのような国策があり得たか。
もしアメリカに屈服し屈辱の和平が出来たとして、持たざる国が禁輸にあって成り立ち得たのか。激高した国民が政府の弱腰に怒り狂い、テロの嵐に総理大臣が何人出ても暗殺が続き、ついには累が皇室にも及び、軍内部での抗争が起こって収拾できぬ混乱に国が覆われることになったのではないか。
・・・
ある時点が過ぎた後では、マッカーサーの米軍以上に強力な、有無を言わせぬ陸軍の戒厳令下の一時的な全権の掌握でもない限り、ある時点以降は乗り切れぬ事態であったと思う。」
「ある時点とは、①日露戦争勝利の時、②明治天皇崩御の時であったと思う。」
結局、そんなことは到底無理だったわけで、300万の精霊を失う結果に。

占領軍主導の「陸軍悪玉、海軍善玉」の風潮に我慢ならないものの、「昭和以降、国にも帝国陸軍にもその指導層に、世界を見渡し、常に現実に立って国策を立て、死を恐れず、それを遂行する真に賢明な大器量の指導者が見当たらなかったのである。」

ビルマでの敗戦の時、それを受け入れようとしたのは陸士出身の士官たちであり、山にこもってでも徹底抗戦を主張したのは、「終戦の数か月前に補充赴任した学徒動員の少尉」に多かったように思う。p252
という回想が興味深い。
「職業軍人のほうが、・・・かえって全体の「秩序」の建前から敗戦を認め、それこそ「職業意識」がわずかではあるが働いて、逆に彼ら(学徒出身少尉ら)をなだめる立場になったのではないかと考えられる。」

戦後、「関東軍参謀の中、何人かはソ連の圧迫と要請に従い早期に帰還し、ソ連側に立っての諜報活動を行っている。」p277
(著者は、瀬島龍三さんについては、「11年の長きにわたりシベリアに抑留された」ので、その一員とは見なしていない。)
志位正二 - Wikipediaさん」は本人が著者にそう告白した由。

あとがきにご家族への感謝を記す(奥様に清書してもらった由)。
3人の男児も掲名(本書では支持と励ましへの感謝を記す)、著者が彼らの成長に期待を込めていたことが感じられるのよね。

その三男がこちら!
「なぜ日本は失敗したのか、どうすればよかったのか――。陸軍の立場から反省を込めてつづられた父、友生の著書『悲しき帝国陸軍』はいつも本棚にあり、元気をもらおうかなと思ったとき、パラパラとめくる。」

勉強しすぎず「考える」 本は高原明生さんの礎 - 日本経済新聞

なぜ日本は失敗したのか、どうすればよかったのか――。陸軍の立場から反省を込めてつづられた父、友生の著書『悲しき帝国陸軍』はいつも本棚にあり、元気をもらおうかなと思...

日本経済新聞

 

(高原先生はシンポジウムなどで何度もそのお話を伺い、ファンなのよ、じつは。)

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