真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

『消えたヤルタ密約緊急電―情報士官・小野寺信の孤独な戦い』 (岡部 伸さん 2012年) 岩延平太…

2012-10-15 | 読書-歴史
新潮選書
消えたヤルタ密約緊急電―情報士官・小野寺信の孤独な戦い
岡部 伸【著】
新潮社
(2012/08/25 出版)

こうまで長く書かんといかんのか、という気はするもののw
今年、2番目に面白かった本かも。

過去エントリから
武官の妻の長い長い戦後

終戦工作

これは以前にもリンク貼ったけど。
4 日米開戦に反対した人はいたのか―日米開戦不可ナリ

お子さんたちに関してなど。
■小野寺 駿一(おのでら しゅんいち)
1953 年東京大学工学部土木工学科卒業、運輸省入省。
1953 年~1985 年運輸省において主として港湾局および航空
局に勤務。1985 年、港湾局長を最後に退官。
1988 年~1994 年 東洋建設株式会社専務取締役
1994 年~1998 年 同 代表取締役副社長
1989 年~1998 年 (社)埋立浚渫協会技術委員会委員長
1991 年~1997 年 運輸省海上安全船員教育審議会委員
1996 年~2004 年 (社)日本港湾協会副会長
2004 年~現在 (社)日本港湾協会名誉会員

ゲッシーのブログ
以前勤めていた職場の直属の上司が小野寺龍二さんという駐オーストリア大使と友人だった。
そうなのだ。豪州ではないのだw

スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
昭和27年、1952年、東京都立戸山高校に入学した。その時、隣のクラスに小野寺龍二が居た。

そこで夫はイワノフの身柄保護のため、在ストックホルム日本公使館に頼んで、イワノフに日本のパスポートを発行してもらった。当時の代理公使神田(こうだ)嚢太郎一等書記官は快く協力してくた。パスポートの氏名は「岩延平太」と夫が名付け、彼の事務所も日本武官室の中に移した。イワノフは今もそれを感謝している

そこで小野寺武官はリビコフスキに「岩延平太」との日本名のパスポートを与え

「戦争の回避の英知-和平に尽力した陸軍武官の娘がプラハで思うこと」2009年刊

驚いた 李香蘭と小野寺信を結ぶ線

児玉昌己 研究室

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