真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

『祖父の戦争』 (早坂隆さん 2005年、文庫は2007年)

2010-08-28 | 読書-歴史
『祖父の戦争』
早坂 隆【著】
現代書館 (2005/08/15 出版)

幻冬舎文庫 (2007/04/10 出版)

「吉田満『戦艦大和ノ最期』にも並ぶ、魂をゆさぶる名作です」、と現代書館の担当編集者
過言の滝だとの声もあるかもしれないが、許す!

(同じく文庫化された)「わらわし隊」の方がTV番組化もされたし、部数は出ているのかもしれないが、多くの人々に考えさせる力という点では、「おじいちゃん戦争のことを教えて」の大人版?の本書が凄い。

おじいちゃん戦争のことを教えて 孫娘からの質問状
小学館文庫
中条高徳
小学館

ちょっと違うか・・。
大企業大経営幹部にまで栄達したおじいちゃんは、若き日にはプロの軍人を目指した方だからな。

中條高徳公式ホームページ

むしろこっちだな。近いのは。
不本意ながら引っ張られたインテリ兵士。
高学歴兵士たちの憂鬱な日常

生き残ったのは運命のいたずら。
ほんのちょっとの歯車のかかり方の違いでしかない。

著者の祖父は、一高~東京帝大卒のエリート文学青年だった人物。
召集前に就職したのは炭鉱会社だし、戦後、事業家として活躍したが、本当は物を書く仕事に就きたかった・・。

癌で余命わずかとなった機会に、ルポライターとなった孫に真剣勝負で戦争体験をすべて語ることを決意する。
(告知の有無はこの際関係ない。自らの命の終わりがそう遠くないと自覚していることがポイント)

ことさら声高に、ということは一切なく、淡々と。
却って迫力があるな。著者の力量によるものでもあるのだろう。

著者(聞き手である孫)の立場での記述と、祖父の立場での「私は・・・」という記述が
  *
で区切られて並ぶ。

注意していないと、「おっと、これはどっちだったんだっけ?」と韃靼人が出てきて踊りを踊ってしまう。
なんちゃって。
(南面堂の脳内でのことねw)

語り部である祖父は、大陸の戦地から久留米の陸軍予備士官学校(消耗激しい下級士官の補充用に一般大学等の卒業生から選抜した「甲幹」を促成育成した)に回されたが、在学中に病気入院。
懇意になった看護婦が「肺炎」の表示を「結核」に勝手に差し替えてしまう。

医師もそれを黙認したことから、敗色濃い中で激戦地に送られることを免れて除隊処分となり、昭和20年3月10日に故郷に生還したという。
(激戦地に向けて出発する仲間たちが行進するザクザクという音を病床から聞く。その音に戦後うなされる)

との記載(ご本人の体験談)だが、「医師が黙認」ではなくて、当初から医師の指示によるものだったかも知れないと睨むな。
ギロリ

結核の兵士といえば、こんな話も。
南面堂の伯父のひとり(伯父たちの中で、雰囲気等が南面堂に最も近かったと聞いている。南面堂がその伯父に近い、というのが正確だが)は、兵役中に結核に罹患し、入院していたが終戦でポイと放り出され、もう直ったものかと思っていたらさにあらずで、食糧難の中亡くなった…と聞いている。

いんちき結核患者と、結核が治っていないのに治ったと誤認したケースの対照…。

などという話を、墓参りの際に息子たちに語ってみたりするのだが、ちゃんと聞いているんだかどうなんだか。
やはり孫に語るしかないか。
それまで頑張らないと。

ちなみに南面堂の父(動員先の工場でヒヤリとした経験はある由だが、銃をとる年齢には達していなかった)は、有名な神宮外苑での学徒出陣壮行会の際、先輩たちを送る後輩の一人としてスタンドにいた由。

つまり、見送ったのは女子学生だけではなかった。
「女子学生が見送る中・・・」の方がドラマチックなのでそのように強調され、女子学生だけかとの誤解につながるのだが、男子の後輩たちも見送ったもの。

「女子学生ら」の「ら」だったわけね、父は。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『戦時演芸慰問団「わらわし... | トップ | 『ベリルン物語―都市の記憶を... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読書-歴史」カテゴリの最新記事