真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

英国の危機を救った男チャーチル なぜ不屈のリーダーシップを発揮できたのか 谷光 太郎【著】

2021-12-15 | 読書-歴史
英国の危機を救った男チャーチル
なぜ不屈のリーダーシップを発揮できたのか

2018/06/11

目次
第1章 チャーチルの人間像
第2章 乱世の政治家チャーチル
第3章 強力なリーダーシップで戦争指導
第4章 東奔西走するチャーチル
第5章 ソ連との共闘を模索するチャーチル
第6章 連合国首脳会談に奔走するチャーチル
第7章 あまりにもお粗末な日本のリーダーシップ

第1章 チャーチルの人間像
チャーチルとはどんな人物だったのか/ありのままのチャーチル/チャーチルと東條英機のリーダー資質の違い
第2章 乱世の政治家チャーチル
第一次大戦でのチャーチル/第一次大戦後の政界とチャーチル/ドイツに参戦、第二次大戦の勃発/戦時内閣の首相に
第3章 強力なリーダーシップで戦争指導
第一次大戦時のロイド・ジョージに学ぶ/国防相を兼務、強力な軍指導体制に/チャーチルと軍首脳との軋轢/視野の広い戦略観による戦争指導/地下壕の戦争指導室
第4章 東奔西走するチャーチル
首相就任以前からルーズベルトとは親密な関係/フランクリン・ルーズベルトとはどんな人物か/ルーズベルトの特使ホプキンスとロンドンで会談/チャーチルとルーズベルトの初会談(大西洋会談)/真珠湾攻撃、マレー沖海戦の衝撃/チャーチル、アメリカに向かう/英米首脳による第一回ワシントン会談/米軍統合参謀長会議とは/欧州戦線重視の英国と対日戦重視の米国/米国の太平洋戦略―キング戦略とマッカーサー戦略/再びアメリカへ―第二回ワシントン会談
第5章 ソ連との共闘を模索するチャーチル
対独戦をめぐる英ソの思惑/スターリンの人物像/スターリンに対する米英両首脳の考えの相違/チャーチル、モスクワでスターリンと会談
第6章 連合国首脳会談に奔走するチャーチル
カサブランカでの英米首脳会談/第三回ワシントン会談でルーズベルトと直談判/フランスへの反攻作戦を決めた第一回ケベック会談/英米首脳によるカイロ会談/初の英米ソ首脳会談―テヘラン会談/極東戦線が議題になった第二回ケベック会談/戦後欧州体制を議論した第二回モスクワ会談/ドイツ降伏とソ連の対日参戦を決めたヤルタ会談/英国が格下げされたポツダム会談
第7章 あまりにもお粗末な日本のリーダーシップ
明治憲法下では強いリーダーは生まれない/東條英機は宰相の器ではなかった/明治憲法と英国憲法の違い/陸海軍間の戦略・作戦の統一問題/指導力のない軍首脳部
チャーチル年表/参考文献

なかなかよい。
プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦) - Wikipediaが日本海軍航空隊にあっさり撃沈された(1941/12/10)際のチャーチルのがっかりぶりは以前から承知していたが、自分が8月にそのフネでカナダまで行き、戦後の構想を高らかに謳い上げてきたきたのだったから、ショックもヒトシオだったよね(というわかりみ!)
大西洋憲章(大西洋会談)のチャーチル首相とルーズベルト大統領(1941年8月10日)

海外での諸会議に、軍艦で行くか、高速客船(RMS Queen Mary - Wikipedia)で行くか、旅客機(飛行艇)で行くか(Boeing 314a Clipper)、爆撃機で行くかなど、それぞれの出張の際にどのようなメンバーと護衛の航空機や艦船で出かけたのかも資料を基に紹介してあるのが興味をそそる。
こんな感じのことも。
Travels with Churchill
Commando (aircraft) - Wikipedia

第二次世界大戦の会談・会議 - Wikipedia
合計で、チャーチルは14回の会談に、ルーズベルトは12回、スターリンは5回の会談に出席した。

名前 場所 日時 主要な出席者
大西洋会談/アルゲンティア、ニューファンドランド、カナダ/1941年8月9日 - 12日/チャーチル、ルーズベルト
第1回ワシントン会談/ワシントンD.C.、アメリカ合衆国/1941年12月22日 - 1942年1月14日/チャーチル、ルーズベルト
第2回ワシントン会談/ワシントンD.C.、アメリカ合衆国/1942年6月19日 - 25日 チャーチル、ルーズベルト
第2回モスクワ会談/モスクワ、ソビエト連邦 /1942年8月12日 - 17日/チャーチル、スターリン、ハリマン
カサブランカ会談/カサブランカ、モロッコ/1943年1月14日 - 24日/チャーチル、ルーズベルト、ド・ゴール、ジロー
第3回ワシントン会談/ワシントンD.C.、アメリカ合衆国/1943年5月12日 - 27日/チャーチル、ルーズベルト
ケベック会談/ケベック、カナダ/1943年8月17日 - 24日/チャーチル、ルーズベルト、キング
カイロ会談/カイロ、エジプト/1943年11月23日 - 26日/チャーチル、ルーズベルト、蔣介石
テヘラン会談/テヘラン、イラン/1943年11月28日 - 12月1日/チャーチル、ルーズベルト、スターリン
第2回カイロ会談/カイロ、エジプト/1943年12月4日 - 6日/チャーチル、ルーズベルト、イノニュ
第2回ケベック会談/ケベック、カナダ/1944年9月12日 - 16日/チャーチル、ルーズベルト
第4回モスクワ会談/モスクワ、ソビエト連邦/1944年10月9日/チャーチル、スターリン、モロトフ、イーデン
マルタ会談/マルタ/1945年1月30日 - 2月2日/チャーチル、ルーズベルト
ヤルタ会談/ヤルタ、ソビエト連邦/1945年2月4日 - 11日/チャーチル、ルーズベルト、スターリン
ポツダム会談/ポツダム、ドイツ/1945年7月17日 - 8月2日/チャーチル、スターリン、トルーマン、アトリー
「14回」には英連邦首相会議(1944年5月1日 - 16日、ロンドン開催)を含む。
テヘラン会談→第2回カイロ会談、マルタ会談→ヤルタ会談は一連のものとして各1回とカウントしている。

「ロンドンの窮屈な生活から解放され、列車内でチャーチルは休みに入った小学生のように嬉々としていた。」(大西洋会談に向かうための乗船地までの特別列車で)と描かれるように、非日常となる海外出張が好きでもあったんだろうな。もちろん、関係者一同をぞろぞろ引き連れて、船での移動の場合や会議地の宿舎にはマップルームを用意させ、同道した軍首脳とも日常同様に戦況をモニターして、的確な判断の基盤となる情報の把握を欠かさなかった。

「90年のチャーチルの生涯は、大英帝国の衰退と崩壊の90年に重なっていた.前半の40年は大英帝国の衰退が意識され始めた時期であり、後半の50年は両次大戦を経て大英帝国の衰退は、もはや押し止められない流れの中にあった。」(第6章)と指摘されるように、帝国主義的発想でルーズベルトを引き込もうとするチャーチルは、むしろスターリンの方により強く共感を寄せがちだったルーズベルトにすがりついて(そうとは見せずに、なのだったが)帝国の衰退をできるだけ穏便なものにしようと努めたのだろう。

第7章 「あまりにもお粗末な日本のリーダーシップ」の章があるのは重要。

大西洋航路に乗降する場合などに何度も利用したロンドンのユーストン駅 - Wikipediaのことが、コーストンだとかユートンになってしまう箇所があるのはご愛敬ということで。


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