置かれた場所で咲く

教育のこと、道徳のこと、音楽のこと、書籍のこと、つれづれ、あれこれ

「どうして勉強しなくちゃいけないの?」

2007-11-16 23:15:09 | あたし的教育論

子どもたちに訊かれたら、なんて答えよう。
たぶん、一生涯の課題じゃないかと思います。

義務教育があるのは、社会生活が滞りなく営めるように、また人が人を統括するために、最低限の情報と行動パターンを共有する必要があるからなんじゃないかって、ちょっとオエライサン意識していいたくなっちゃうのがホンネですが

人はなぜ学ぶのだろう。

自分という存在がこの世界に生まれて、存在して、そして消え去っていく。

消え去ってしまえば、もうここには何もない。

ただ、自分の代わりにほかの誰かがこの場所をうめていく。

それでも僕は学び続ける、自分自身がここにいることを今、自分が再確認するために。


何かで聞いた言葉達だとは思いますが、記憶は曖昧。どこか捻じ曲がっているかもしれません。
まだ、考えもまとまってないし。
それに答えが出たところで思考が停止するだけだから。経験重ねていくことで別のものがみえてくるのは、今までの経験からも明らかですもの

ただね、この場所に自分が存在する間は人間の脳は常に変化や刺激を求めていて、それがプラスの刺激にせよマイナスの刺激にせよ、自身の行動に何らかの影響を及ぼすんだってこと。
そして変化や刺激を自らつくり出すか他者に依存するかは、自己をつくるおっきな要因のひとつなんじゃないかってこと。
これは最近感じてます。

そして自分という存在、心の在り処は自己の内面ではなく、外にあるんじゃないか。
自己と何かの間、例えばそれは他者であったり、自然であったり。そんなところに心は存在するんじゃないかってことは、偉大な方から話を聞いて以来、前々から感じていること。


・・・まだまだ思考初期段階なので、ツッコミどころは満載だと思うけど。
そしてツッコミ大歓迎です。批判はいったん凹むけど、有り難いなーって後から感謝の念が湧いてくるのが常。全否定はさすがにちょっとイヤだな認めるまでいかなくても、こーゆう考え方もあるのね的な感じでせめて代案出してね(笑)


偉そうなことをつらつらと書き連ねてますが・・・個人的には、ツラくて苦しいことはキライ、自分がやりたくないことはやれっていわれてもやりたくない怒鳴られたり説教されたりするとイヤって逃げちゃうこと多々・・・。
だけど、ステップアップしていくのは好きかな。新しい視点とか考え方に触れるのも好き。楽しいこと、心地いいこと、キモチイイこと大好きなお気楽快楽主義しんどかった後にぐわぁーってくるランナーズハイ、大好物

・・・最近いぢめるの大好きな潜在的ドMなので、いじめられてもいじめ返します。さらにいじめ返しされてうぅって凹んだときに優しくされると、ちょっぴりクラっときます(笑)




思考を預ける

2007-11-02 23:25:58 | あたし的教育論

生活の中で思考する場が、最近ますます少なくなっている気がする。
あたしはまだ、24・5年しか生きてはいないけど、そうなってきたのって、ここ50年余りなんじゃないかなぁってにおいがする。

工夫し、協力せざるを得ない不便な生活は、人同士のコミュニティーを活性化させて、生活の中での生きていく知恵を捻り出す必要性があった。道具を使って、工夫しなくちゃ、毎日の生活が成り立たなかった、そんな時代だったんじゃないかな。

不便さを感じると、人はより良い営みを求めて思考し始める。
これは学校の授業とまったく同じこと。
不便さ、足りなさ、課題、こんな動機づけからの行動こそが、自らの血肉になっていくんじゃないかって常に思ってる。
・・・できてるかどうかは、また別だけどさ。


ここ十数年で、世の中はすごく便利になったけど、その便利さや工夫、生活の知恵的なものを手にいれるための代償がものすごい勢いでお金に換算され始めたのも同時進行だったんじゃない?

子どもたちが学べる場が、社会があらかじめ想定した場に限定されつつあるんだ。

今までは生活の工夫から学び取れたものが、大人が準備して課題やらトラップやらを仕掛けた場に移行しつつあるんじゃないかな?

今考えてる原因は三つ。
情報の共有化と、工夫や知恵、サービスの賃金換算。そして、エネルギーは思考の方向に流れていくというひとの実態。

不便な生活は、ステップアップするための道のりの長さとそこまでの過程が、楽しさと生活のための知恵を生み出す。
便利な生活は、これ以上下がりたくないって思いとそのために働くことが、虚しさとストレス発散のための浪費を生み出す。
不便な生活には、知恵と工夫が必要で
便利な生活に必要なのはただ、お金だけだ。

なんだか、そんな気がする。


ないものねだりだっていうのはわかってるよ?
すごく極論。しかも思考力の低下は人のせい?社会のせい?
責任のなすりつけ合いはしたくないもの。


でも・・・これ以上、工夫の余地の少ない生活になってほしくないなぁ。

蛇口をひねるのは面倒だからレバー式になって、ネジの締め方がわからない子どもが増えていく。
自ら遊びを考えるのは時間がかかるし面白くするには頭も使わなきゃだから、お手軽簡単にできるDSで友達と遊ぶ。
辞書使うの面倒だから、ネットで検索して写せばいいや。
やかんでお湯沸かすよりも、ポットで沸かしたほうが手間が省けるもん。

こんな便利なものがありますよ。これを使えばこんなにラクなんです。
わたしたちのアイディアはすごいでしょ?
だからみなさん、これを買いましょう。
便利な生活を手に入れるために、お金を稼ぎましょう。

こんな構図が、ここ半年ずっと頭にひっかかってるの。

国や企業があたしたちの代わりに考えてくれる生活は、便利ではあるけれど、金銭至上主義はどんどん増えていくように思う。
整合性が取れないから、目的と行動が叶ってないから、ストレスを抱える大人や子どもがどんどん増えてるんじゃないの?

社会のシステムがまさにそうなっていて、ジャンルはどんどん細分化されている現代社会、だけど、、、


・・・うーん、なんだかうまくまとまりません。
久々に綴って、内容が雑然としちゃった。

なんか社会に言いたい、若輩者の戯れ言です。
まだ自分の子を産んで育てたことのないあたしの、妄想教育論です。


経験主義なのは、これからも変わらないと思うけどね。




焦点化

2007-10-29 00:18:40 | あたし的教育論
日々変化して、波打つ感情の一つひとつを注視する。

今まで綴ってきた思い。
描いてきた理想画。
伝えたいイメージ。届けたい願い。

綴ることで、もやもやしていた心の内を、自分に伝えることができた。
語ることで、ふわふわしていた日々の自分を、戒めることができた。

でも、それだけ。

ここで語って、何が残るの?
ここで綴って、何が現場に生きるの?

ただ書き綴ることだけに時間を割くなら、教材研究しなさいな。
ただ自己アピールしたいだけなら、教授法考えたほうが現場に生きるでしょ?

そうじゃない、そんなことがしたいわけじゃない。

言葉にしてきたいくつもの思いを具体化できないまま、過ごす毎日の重さに辟易していた。

この気持ちを具現化したい。
どんなに強く願っても、思い描いても、目に見えなければ伝わらない。

思いを現場で伝えるための、カタチにするための技術が欲しいと思った。


綴ることで、語ることで見えてきた、自分自身。
自らに課した課題。
10月に迎えた、大きな壁。もがく自分。超えられない自分。
そして、その壁を超えたという実感。
自らの信念をぶつけていく。跳ね返ってくる。
ここまではできた。ここからはまだ、できない。
でも、見えた。
確かな感触。

実践することが、そのために計画を練り上げることが、今、こんなにもおもしろい。
現場での変容が、己の大きな喜びに変わった。


壁だ。壁を課すんだ。

褒め続けるだけの教育には甚だ疑問で。
ただただ叱り続ける教育なんて、教育じゃない。

小さなハードルを、確かに越えた実感を、他者視点で認める。
少し大きなハードルにチャレンジ、失敗の中の成功のタネを見つける。
認める。自身に自信がつく。もう一度チャレンジする。


これだ、これを実践化していこう。
新しく出来た、新たな課題。
キラキラしてる。モチベーションも上がってる。


もっともっと、欲を出して。
眠さや飽きや食欲に、日々負けてはいるけれど。

そして、恐れを知らない欲深いあたしは、もっともっと求めてる。
経験と語り合いの場。それができる仲間たち。

自らが胸に抱く、この信念が大きく揺らぐような。
その揺らぎで自分が今いる場所を、再確認できるような。





カソウゲンジツセカイ

2007-10-08 23:38:02 | あたし的教育論

はじめまして、ぼく、です

ふだんの葛藤と鬱憤、やるせなさを吐き出しにきました
きいてくれるんだね、きみは
ぼくのまわりにいるひとたちとは大違いだよ

こんなこと・・・ここじゃなきゃ言えないけど

このくらいなら・・・まだいい?
もっと刺激的でもいい?

もうちょっと・・・ちょっと・・・
ああ、だいじょうぶ

こんなぼくでも受け入れてくれるんだ、ここは


“最近の学生”、“近頃の若い者”
そんなありきたりの言葉でくくらないでくれ
ぼくはぼくなんだ
自分を貫き通したいんだ

現実って・・・どこ?
画面の中と外、どっちがホントのぼく、なんだろう


ぼくはここにいる

たしかにここにいるのに


どうしてみえないんだろう

あまりにも近いから

ぼくが、遠く霞んでみえるんだ



ネットを引き金に起こる、かなしい事件が後をたちません。
仮想現実の世界。
相手の顔が、表情が、思いが見えにくい世界。

そこで派生するさまざまなつながり、有機的なもの、無機的なもの。
ここなら元気になれる、元気をもらえる。そんなこともたくさんある一方で。

理解できない中傷、誹謗。いくつもの心無いコメント。
到底理解できないと思えるような非難。

これらが、子どもたちの世界でも起こっています。
現実に、リアルになって降りかかっています。

“暴力シーン見るとすっきりするよねー”
“あー、「ライフ」でしょー?みたみたー。超おもしろいよねー、あのドラマ。あたしもやりたーい”


こんな会話が飛び交うという某友人の中学校。
画面の中と現実とが一緒になって、強すぎる刺激に感覚が麻痺して、自分がすることにも言うことにも抵抗がなくなってゆく。だって大人だってしてるじゃん。いじめはダメ、悪口言うな、そういってるけど、あの掲示板なんてそんなもので溢れてる。要はバレなければいいんでしょ?

そんなことを暗黙のうちに学んでいる気がしてなりません。


うちの学校の今年度の校内研修のテーマは“情報モラル教育”。
要請訪問の授業のネタもコレ関連です。

情報教育の中にいかにモラルを取り込んでいくか・・・奥が深いっす

パソコンが普及して、インターネットがもてはやされた初期には、光の部分が大きくピックアップされて、まさかこんな暗く重い影の部分が子どもたちに降りかかってくるとは想像もできなかったんじゃないかと思う。
だからこそ、考えていかなきゃいけないよ。

ケータイを持たせれば安全、その安全はお金で買える程度の安全にしか過ぎない。



なにがただしいのかなんてわからないけれど

2007-10-03 23:03:52 | あたし的教育論

べんりな世の中です

蛇口をひねらなくてもお水が出るし
ボタン一つでお風呂が沸くし

スイッチひとつで暖かくも涼しくもなるし
画面には3D映像まで出ちゃう


技術の進化は分業を加速させて
それぞれのお仕事の中身はますま見えにくくなってゆく

それは 人と人とのつながりだけではなくて
ものとものをつなぐ思考をも薄くしていってる気がする


どうしてドアノブをまわすと とびらがあくの?
お水はどうやってあったまるの?
たねなんてまいてないのに 毎年さくお花
ぬいてもぬいても生えてくるざっそう

なんで?どうして?
こことここのつながりってどうなってるの?
どうしてこれとこれがつながるの?

そんなつながりが どんどん希薄になっている


これでもし

立体映像が見られるようになって
ボタンひとつでお食事ができて
意思ひとつで自由に移動できる世の中になったら

子どもたちの思考はどんなふうに育ってゆくんだろう


便利さを希求することは 科学技術を発達させてきたけど
与えられた恩恵にすがる その他大勢の人たちの
思考を止めてしまうことにつながらないのかな?

やわらかい子どもの脳
大人でも 時計ひとつつくるのは難しい
先代の宝を浪費するだけの生活じゃ
思考力は低下の一途を ただ辿ってゆくだけ


願わくば 自分の子どもを育てるのは
都会すぎないところがいい

できるだけ森に 林に 野山に近いところで
命のつながりを体で感じられるところで


そう、大好きな人と 一緒に