昨日4日、BSテレ東京の朝の番組に出演されていたピアニストの深沢亮子先生のこと。
御歳年85歳になられても現役で演奏活動と生徒さんのご指導をされているそうです。
私の1年先輩は子供の時から
ピアニストの大野亮子さん(現 深沢亮子先生)のいわゆる追っかけで
大阪から先生の東京のお宅にまで押しかける?ような大ファンだったそうで
初めは門前払いだったけれど、途中からお家に入れてもらえるようになり
彼女が深沢先生にレッスンを受けていることを知った私たちの恩師は
通常は習っている先生に黙って別の先生の指導を受けることは
禁止とは言わないけれど、当時は(今もでしょうか?)難しい時代でしたが
私たちの恩師は、彼女に深沢先生のレッスンを受けることを許す代わりに
日本の代表的なピアニストの深沢先生を、自分に紹介することで
先輩のことを許されたという経緯がありました。
これをきっかけに、恩師の生徒さんの中で優秀でコンクールなどにも出場させていた
小学生の生徒さんと、私は夏休みの恩師のピアノ発表会で弾く
グリークの「ピアノ協奏曲Op.16」の1楽章のレッスンを
深沢先生に受けるために、恩師も同行で東京まで行くことに。
新幹線に乗るのも東京に行くのも初めてのことだった大学3回生の田舎人間でした。
当時先生は
東京原宿の駅前のコープオリンピアというマンションに住んでおられました。
このマンションは、昭和40年オリンピックの翌年に建てられた
「日本の億ション第1号というステイタスあるヴィンテージマンション」だったそうで
マンションの中階にホテルのようにフロントがあって
お部屋に繋いでもらうという形のお住まい。
東京も初めてで、高級マンションも初めての、何もかもびっくりの思い出です。
ピアノの前で記念に写真をご一緒して頂いたショットは
今でも脳裏に鮮明に残っていて、昨日の番組での先生のヘアスタイルは当時と同じ。
気品ある、ちょっと日本人離れしたお顔立ちの
美しいインド人のようなご婦人という印象でした。
でも、深沢先生との記念の写真は引っ越しの際残さなかったようで、残念❗️
まさしくこの写真のように美しくオーラに覆われていました。
旧性を大野亮子さんと言って、先生のお母様大野敏子さんが
この方の子供の時からのレッスンの記録「ピアノの日記」と言うのを書かれていて
その後大野亮子さんの名前で、高校生からウィーンに留学された時の
「ウィーン日記」というのも出版されていて、私は買って読んでいましたが
この本も引っ越し先には持ってこなかったようです、私ってバカだわ。
日本音楽コンクールに出場(小学生?中学生せいだったか?)の時
直前に指のひょう疽になってしまい
普通なら出場辞退ですが、当時師事されていた永井進先生が
ひょう疽などになったことを激怒されて、そんなひどい指の状態で
その激痛に耐えながら出場して受賞した経緯も書かれています。
指に絆創膏をぐるぐる巻きにして弾くという
痛みは当然だけど、指先の感覚も鈍くなるだろうし
弾けるものじゃない状態でも受賞された経緯が、細かく書かれていたように思います。
※「ひょう疽」とは指先に炎症とうずくような強い痛みを起こす細菌感染症
子供ながらもそのど根性が衝撃的でしたが、普段のレッスン通いの様子は
道中でお花を摘んだりしながら、いつもおおらかで楽しそうな
私たち一般人の、少なからず悲壮な面持ちで通ったレッスン通いとは大違いで
感性豊かな、普通の子供らしい日常の中で
楽しみながらピアノの道を進まれていて
これが理想的なピアノレッスンの道だと痛感の内容でした。
ちょっと練習するだけで仕上がるという、余裕綽々の天才肌の方だったようです。
追っかけからお家に入れてもらえるようになった先輩は
その後、亮子先生の双子の弟さんのお一人に見初められて婚約。でしたが
これって運命?
心筋梗塞でしょうか、彼女が東京に行って弟さんと会って
楽しく過ごしただろうと想像する中、その翌朝弟さんは亡くなられていて
彼女は新幹線の車中で、今のように携帯もない時代
帰ってくるまでこのことを知らないという
ドラマのような展開の経緯を聞きました。
私は、同門で花座でも一緒に歌っている慶子さんともう一人の同級生とで
先輩のおかげのおこぼれ?で2回目のレッスンを受けたりと
田舎の女子大生としてはちょっと華やかな思い出が蘇ります。
先輩は「亮子先生」と呼んでずっと親しくお付き合いは続いているようで
今回のBSテレ東京の番組情報を教えてもらい
半世紀ほど昔の思い出の一コマが、久々に鮮明に蘇ったひと時でした。