どんな人も自分の人生の転機となった人があると思う。
私はピアノの道に行くことができたピアノの恩師と、高校から大学にかけて合唱を習い、現在まで一緒に歩むこととなった「女声合唱団風」の指揮者だ。
この合唱専任の恩師が高校音楽科に来られた時は強烈な印象だった。
生徒たちはいい加減な練習で授業に臨んでいるのに、先生がバリバリと響く声でバーっと引っ張っていくと、いつの間にか曲がまとまる。その指導力とその通る声に圧倒された。
先生は38歳。そのころは七三にびしっと分けたヘアスタイルで近寄りがたいイメージだったが、それでもみんなの憧れでもあり、大学で入った合唱部の部員たちのことを「○○先生ファンクラブ」と周りは揶揄していた。
その先生もこの1月9日に84歳となられたが、毎年のコンサートに意欲的に盛り沢山なプログラムを計画しておられる。
ピアノ人生は、中学1年生の3月初め和歌山紀三井寺の恩師の門を叩いたことから始まった。
私の地元で習っていた先生は声楽出身なので、その道に進むんだったらと同じ大学のピアノ科の先生を紹介して下さった。
その時の地元の先生は「同じ沿線の近いところにも先生はいるが、○○ちゃんには『東京芸大出身』の先生でないと」と、我が家からは2時間かかって通う1週間に1度のレッスンが始まった。
恩師の和歌山のレッスン室には当然和歌山周辺から来ている生徒が多く、ほかの生徒やその保護者には「この人ね○○市から2時間かかってきているのよ」とよく話題にして下さった。しかし1年先輩の中には四国から土日に1泊2日で習いに来ているという仰天の人もあった。
日曜日朝10時からなので、我が家の沿線の電車と、和歌山に着くとそのころあった市電に40分乗って先生の本家の横に建っている離れ屋に着く。
遠方から来ているから当然だがレッスン前の緊張とで、そのころ外にあったトイレに駆け込むと言うのがいつものパターン。
先生はまだ新婚さんで、ご長男がおなかにいるというとてもお若いころ。しかし中学2年生の私には29歳の先生が非常に大人の女性という印象で、背が高くスタイルのいい先生の落ち着いた色のセンス良いスーツ姿は、レッスン生たちの憧れでもあった。
当時、よその先生にレッスンを受けていたほかの同級生たちの話にも共通するが、先生との間にはいつも近寄りがたい緊張感と怖さがあった。
今の一般的な先生と生徒という関係では想像もつかないだろうけど、中々先生に口がきけないような独特の空気があった。
良い悪いは別にして、先生のおっしゃるレッスンは疑わず一生懸命信じて練習に励むというのが、そのころの私たちだった。
また、私の恩師はそのようなことはなかったが、同級生の中には習っていた先生が「今度のレッスンは水曜日ね」とおっしゃると、学校があるんですが・・・とは言えなくて学校を休まねばならなかったとか。
当時はよほどの病気でもないかぎり、学校を休むことには後ろめたさを感じるような時代だった。
私は高校音楽科に進むには、レベル的に相当遅れていたことと、その前に習っていた先生のちょっと方向違いのレッスンでかなり変な癖がついていたので、恩師の心の中では果たして受けるところまで行けるか?という疑念はあったと、後に先生から聞かされた。
とにかく受験に間に合うためにも、課題のエチュードまでたどり着くためには時間がない。その時やっていたエチュードを少し戻して付いた癖を矯正しながら、しかし順にやっていては間に合わないので、先生がこれとこれととピックアップした曲を1週間に5曲ぐらいを終えながら、1年間ぐらいを猛スピードでこなしていった。しかし私は能天気なのか、それほど悲壮感はなくこんなものだとやっていた気がする。
そんなこんなで高校受験で何とか合格し音楽科の生徒となったが、私は本番に強いのだろう。恩師にも何とか引っかかれば良いと思われていたのが、ピアノの成績も上位で入り、新入生代表の「宣誓」を読むこととなった。
しかし恩師には「あなたは運よく入ったけどそんなものじゃないんだから!」とかなり脅かされたのを思い出す。母校の音楽科は、山田耕筰氏やそのほかの音楽界の著名人とで作られたそうで、その前の年に亡くなった山田耕筰氏の「追悼演奏会」が高校入学が決まった3月に開かれ、母校の先生方の演奏や辻久子氏のヴァイオリン演奏も聴いた。
だが、今から20年近く前の先生が飛ぶ鳥を落とすかのような超多忙で全盛の時代に、突然脳出血で倒れられて、後遺症やなんやで随分の時が過ぎた。
現在は大阪市内に住みご主人が先生の色々な身の回りのことをお世話しながら、それでも海外旅行や、教え子でピアニストになって活躍している人のコンサートに行ったりして楽しんでいらっしゃる。今年の6月7日の「風」コンサートにも来て下さることを確約して下さった。
2日前の日曜日、大阪在住の1年先輩の手配でほんの数人だけ先生とご主人を囲んで食事会をした。
NHK連ドラ「カーネーション」で撮影があった大阪心斎橋の45年続いている有名なお店だが、3月末にお店が閉店するからと先輩が予約してくれた。
先生が楽器の形の模様の乗ったチョコレートをお土産に下さった。
先生は、私が伴奏ピアノで勉強しているのをとても喜んで下さっている。
足や手が少し不自由でも、先生の耳は益々冴えてらっしゃるので、私のピアノを知っているころから比べて、ピアノの音色に変化を出せることを評価して下さり、今も細々とあきらめず活動していることを喜んで下さる。
コーラスの伴奏ピアノは「風」の指揮者のこだわりを持った指摘が大きく影響して、私の耳を鍛えて下さったと思っている。
このお二人はまちがいなく私の音楽人生でのすばらしい出会いである。