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昨日の夕刊の記事に載った写真に目がひきつけられてしまった。千葉から野菜行商のため東京や神奈川にやって来るおばちゃんたちの姿だ。懐かしいなぁ♪ JRがまだ国鉄と名乗っていた頃、私はほぼ毎日、巨大な荷を背負った彼女たちを車内で見ていた。あれは根岸線だった。たいていは2人組で一人は関内駅で降りていた。 記事には≪おばちゃんたちは80キロぐらいの荷を担いでいた、なかには100キロという人も≫なんてことが書いてあるが、私が関内駅で見た人はすごかった。一人で二つも担いでいたのだ。 いや、正確に言うと二つ同時に背負っているのではなく、一つを10メートルくらい運んだら元の場所に戻り、そこに置いてある二つ目の荷を運ぶ。そんな尺取虫状態で移動していた。なんだかシーシュポスの神話を見ているような気がしたものだった。 二つだったからおそらく100キロを超えてたのではないだろうか。そんな大量の荷を運んでいたおばちゃんが向かうのは伊勢佐木モール。「野沢屋」あたりの路上で荷を広げ、野菜などを売っていた。 そこで私が買ったのは2回くらいしかないが、よく売れていたと思う。 ![]() 二人組のうちの一人はこうして伊勢佐木町で野菜を売っていたのだが、もう一人は関内駅で降りずにそのまま電車に乗り続け石川町駅や山手駅まで行っていた。その人のカゴに入っているのが花だったので、≪ああ、ここから先の町は野菜ではなく、花なんだ~≫と思ったのを覚えている。おそらく彼女は山手や本牧の外国人住宅へ売りに行っていたんだろう。当時は本牧はまだ接収中だったからフェンスの中はアメリカ人が多かっただろうし、また山手だって外国人がやたら多かったのではないだろうか。 伊勢佐木モールで野菜を売っていたおばちゃんが千葉へ帰ると、それに替わって有隣堂の横に「出勤」してくる靴磨きのお婆さんがいた。いつも地べたに座ってお客を待っていたあの姿を今でもよく覚えている。私は福富町の呑み屋へ行く前に、ときどき靴を磨いてもらっていた。 最初の頃はほとんど話をしなかったが、やがてお婆さんはいろいろ昔話をするようになってきた。その話はいつもこうだった。 戦争前は野毛山動物園の先にあったお屋敷で暮らしていたの。それはそれは、大きな家だったわ。今でもそれは変わらない。時間になったらうちの人が車で迎えに来てくれるのよ。(なんだか中華街の公衆トイレで生活していた徳川さんを思い出させる) そんな話を聞かされたあと私はいつも福富町へ。「大平山」あたりで夜遅くまで呑み、やがて店を出てフラフラと有隣堂まで来ると、店じまいをしているお婆さんを見かけた。 靴磨きセットや座布団を片付けているところに現れるのは旦那さんらしき爺さん。台車に商売道具を載せると、伊勢佐木モールをガラガラと押しながら帰って行った。あの音は寂しかったなぁ…。 ![]() |
40年以上前ですが総武線、山手線でよく見かけました!かなり年配のおばあさん達が縦長の荷物を背負って
移動してましたね。
子供心に凄いなぁ~と思いました。
じつは真実だったりして……と思うことも
あります。事実は小説より奇なり。
千葉から移動するから総武線は一番多かったでしょうね。
根岸線まで乗ってくるとはすごいです。
丹沢の山小屋へ荷物を運んでいるボッカ、
あれもすごかったです。
とくに鍋割のあるじは凍傷で足の指がないのに、
100キロぐらい担いでいました。
そんなこともありそうですね。
靴磨きのおばあさんはもういないでしょうけど、
徳川さんはどうしているのかなぁ。
運転手付きの車で銀座へいっているかも。
頼朝が三浦から房総へ、日蓮が房総から猿島へと、今の東京湾を挟んで人と物の交流はあったようですね。
戦争の影響か要塞地帯への横断ができなくなって、再開したのは浜金谷から浦賀の東海汽船だったかなぁ?
進駐軍の接収も影響したんでしょう。
行商のお母さんのために国鉄は内房線と横須賀線を接続させる粋なダイヤを組んだと聞いたことがあります。
房総から多くの男たちが出征・戦没したので、その母や妻への援護の意味があったのかもしれません。
行商といえば、山下公園のアイスクリームのお母さんの話も思い出深いものがありますね。
最後の2人となってしまった頃に、たまたま話をしていたら、アイスクリームのコーンで有名な日世の社長のお母さんということでビックリしました。
息子が作る商品の売り上げを伸ばすためにアイスクリーム売りを始めたので、会社が大きくなってお金の心配はないから引退してもいいと息子にいわれたけど、死ぬまで続けたいといっていたのが印象に残っています。
時代ってある意味、大切なことを切り捨てているんですよね。
明治丸の話は元町商店街で聞いたんだと思いますよ。
房総と横浜、いろいろつながりがあるんですねぇ。
山下公園のアイスクリーム売りのおばさんが日世の社長のお母さんって、どうなんでしょうか。
あのおばさんがリヤカーを曳いて中華街へ帰っていく姿を何度も見ました。
有隣堂横の靴磨きのお婆さんや大荷物の徳川さんの話みたい…
それでも、いいんですけどね♪