鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

12月6日、日曜日、何週間ぶりに家にいている。

2009-12-06 09:32:17 | 直言!
来週と再来週の日曜日は現場がある。
10日から13日までずっと現場が入っている。
12日の夜は忘年会もあるのでずっと外にでっぱなしになりそうだ。
13日は鶴橋で11時半ごろから仕事。10日からバタバタしそうだ。
今日は久しぶりの日曜日。夫が下着を購入に行くというので一緒にいくことになった。次いでに私の所用もすませてこよう。
店は10時からオープンするのでもうそろそろ身支度をしていかないといけない。

どこかでまた鳩が産卵してヒナになって巣立ちをしたのだろうか。
今朝、遠くの電線に小さな鳩がとまっている。
4羽とまっていた。
ベランダを空けて電線を見ると小さな鳩、まだ巣立ちしたばかりのヒナはまたもう1つ遠くの電線に移って4羽並んでとまっていた。
またどこかで生まれたヒナが巣立ちしたのだろう。
鳴き声はピイピイなのでまだまだ子どものようだ。

昨日は長いことテレビを見ていた。
BS11チャンネルで8時からしていた「タイムトラベル」昭和36年ということは1961年になる。その時代の日めくりカレンダーでその時代に起こった出来事などを紹介していた。11時までの放映だった。最後までみたが10時ごろから睡魔と闘いながら見ていた。
ポリオのワクチンで抗議したお母さんたち、この時代だったのかとまた認識することになった。
南極観測隊で1年間放置されたタローとジローが生きていて当時の新聞に載っていた。私はタローとジローの生きている犬2匹の写真に涙をこぼしながら読んだことを記憶している。
小学校6年生ごろになると父親は会社勤めの往来に購入する新聞は家に持って帰ってきた。そして私にも読むようにと食卓のテーブルに置くようになった。
そんなに娯楽のなかった時代の新聞はまた違う形で大切な読み物だった。
私は小学校6年生あたりから新聞を読むようになった。
それからずっと新聞を読んでいる。やはり父親の影響が強かったのかと今にして思う。
涙をこぼして読んだタローとジローの生存記事だった。その後、ジローは南極で亡くなったがタローは観測隊と一緒に帰ってきたニュースを昨日紹介していた。
昭和36年、1961年、私は当時高校2年だった。田舎の小高い山の上に建っていた高校に通学していた。
まだまだ物のない時代だった。なつかしくもその背景の景色を見ていた。映像のほとんどは白黒だった。日本はようやく高度経済成長に乗りかかったところだった。
この時の流行歌も紹介された。
「ドドンパ娘」「王将」「北帰行」「銀座の恋の物語」など。もっと歌はたくさん流行っていたのに思い出せない。テレビ普及が1千万台に到達した時でもあったらしい。
そういえば高校2年の冬にテレビが私の家にもあったのかと思い出していた。
「若い季節」も「シャン玉ホリデイ」も見ていた。
懐かしい。スーダラ節がヒットした秘話、植木等さんの胸中も披露された。
当時の映画は石坂洋次郎作品も多かった。石原裕次郎がよく出ていた。
「社長の椅子」「陽のあたる坂道」「若い人」などなど文芸作品にも出ておられた。時代を振り返ると私は今65歳、よくここまで生きてこられたものだ。
多くの人に助けられて生かされてきた。感謝をしないといけないとまたそんなことも考えていた。
学校の教室で「ドドンパ娘」を歌いツイストの踊り方を教えてもらったりしたものだった。1960年代、エネルギーに満ちていた日本だった。一方、韓国は動乱の後で皆大変な生活をしておられた。
一方、北朝鮮はソ連の支援で国力が回復しているように見えたがそうではなかった。日本から帰国した人たちの資産を没収したものが日本に住んでいる1部に還元されたのが学校教育だったがそれも崩れてしまった。
あの時の帰国運動に民族学校の活動は何だったのだろうか。
また考えさせられる。
先日の高政美さんの判決裁判で傍聴した事柄を考えるとあの帰国はいったいなんだったのだろうかと考えさせられる。もう1度、民族の原点に戻って考えていけないものはいけないとして日本で暮らす在日コリアンが暮らしやすいものにしていかないといけない。そんなことを思って見ていたテレビ番組だった。次ぎは2月、昭和41年になるらしい。時間のある方は見て下さい。
さてこれから身支度です。


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