明日の現場も寒いだろうなと思って横になっていた。
リビングにいるとついテレビを見てしまう。横になるとウトウトと眠ったりして少しは休養になっている。
今日の脱北者たちの講演会、北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会が主催でこの間、金正男に関する著書を出版された方も来られる。
少しこの講演会に参加したいと思って仕事のカレンダーに予定を入れていた。
けれど2月1日に少し体調を崩しているのにドタバタして仕事をしなければならなかった。
そんな様子に今回の現場は中止したほうがいいという編集局の配慮で中止をした。ここだけ会場だけでなく現場に入るともう1つのところも脱北者の支援団体が企画している大阪国際交流センターも行かないといけない。北朝鮮の現状に関係する写真や物の展示をしている会場にも入らないといけない。
午前・午後と1日の現場、そして明日5日はまた鶴橋の大阪市立舎利寺小学校で民族学級で学ぶ子どもたちの「ウリマル(母国語)カルタ大会」、韓国語のカルタ大会、これは民団大阪本部が主催で関西に所属する韓国教育院の教師たちがカルタ読みをしていく。韓国政府派遣教師の正式な発音でのカルタ取り。子どもたちはこの時ばかりになると元気になってカルタ取りをしている。
大阪府内にある小学校の民族学級で学ぶ子どもたちが一同に大阪市立舎利寺小学校に集る。応援も保護者らが見学にきて熱気溢れる体育館になる。
トーナメント形式で勝ち進んでいくが負けた子どもたちは悔しくて泣いている。
何年か前だが小学6年の男の子は「もう来年はない。卒業していくのに負けた」といって泣いていたのが印象に残っている。
カルタは最初の1回目、大阪市外教が作ったカルタを使っての大会になった。
韓国系の民族団体、民団大阪本部が主催していることからカルタにいくつか疑問があった。韓国語をそんなに熟知していない私でもいくつかのカルタが気になった。
韓国政府派遣教師は教育の立場から「これは教育現場ではよくない」という指摘で翌年から民団大阪本部が作成したカルタを使うことになった。
カルタ取りは各民族学級の講師が指導しているが大会では韓国から来られている教師が指導にあたっている。
韓国政府派遣教師の立場もある。
大阪市外国人教育研究協議会は日本に所属する教育団体、南北分断国家関係なく中立的にカルタに取り入れた。しかしこのカルタを使ってする大会、民団大阪本部が主催して韓国政府派遣教師が大会に関与することでやはり韓国で使われている言葉にしないといけないことからカルタを新しく作って民族学級に配付された。
そして子どもたちは韓国語を学ぶ姿勢が出てきた。
「韓国語をもっと覚えたいので新しい言葉のカルタを作って」という要望が昨年の大会から出始めた。来年から新しいカルタになりそうという。
子どもの声は周囲に反響を与えている。
大阪市内には日本公立小学校の中に民族学級が多く設置されている。
この子たちが社会に出ても自分のアイデンテイテイは持っている。
民団大阪本部が主催する在阪韓国人の新成人式に参加する中に小学校時代に民族学級で学んだという子どもが多い。
また高校で「朝文研」のクラブ活動に参加していた子どもたちが多い。
何らかのかたちで自分を忘れないで前に進んでいる。
日本国籍にしてもルーツをきちんと話して暮らしている。
私は京都府南部の端の小さな田舎町で生まれて育った。
私は父親に感謝をしている。
父親の教育がなかったら大人になったときに自分の民族を隠して日本国籍にしてへんてこりんな在日韓国人になっていただろう。
しかし父親はいつも口にしていた。
「国籍は隠さないこと。在日は日本の歴史が作ったのだから在日は何も悪いことしていない。堂々と胸をはって日本でいきていけばよい。そのためには真面目に生きること。真面目に生きると日本人から信頼される」
何度も何度も父親は子どもたちに話して語り教えてくれた。
いつのまにか耳に残り国籍を隠すことなくずっとこれまで人生を歩いてきた。
幸いに私の父親はきちんと教育を受けていたのでそれなりに子どもたちに歴史と国籍について話してくれた。
しかしきちんと教育を受けていない1世がほとんどである。
親たちから国籍について知識をきちんと教えてもらうことなく大人になっていく。間違った認識は在日コリアンを卑下して隠していく。隠し通していく。
そんな同級生に日本人の友人の間で私は苛めの対象にもなった。
また結婚して夫の身内からも日本国籍をとらない私に対して在日韓国人が在日韓国人にいってはならないことで私を苛めの対象にもした。
夫の身内で辛かった時代は何年かあった。
そして在日韓国人の新聞社で25年の記者生活を通して1世が日本で生きた歴史は過酷で生きるために必死だったことも知っていくと様々な形が在日コリアンだとも知っていく。
高校の同級生の数々の言葉はいったん胸の中にしまって同級生を許した。しかしその後がまたいけなかった。同胞同士の妬みなのか、嫉みなのか。
他の同級生の前でまったく他の同級生には関係がないのに私に罵詈憎悪をならべたてた。言う場所が違うのにならべたてた。これをとめようとしなかった2人の日本人の同級生にもっと気持ちが腹立たしくなった。ここのところが今も許せない。年を重ねてきたので周りに丸くならないといけないと思っているがやはり彼女たちは許せない。
鈍感な彼女たち、私が傷ついているとは知らないだろう。
たとえ知ったところで「なんやそんなことで腹たてている」と私を侮辱する材料にするだろう。
けれど今、またひそかに親しまれて歌われている「ブルーライトヨコハマ」を聞くとこの中の1人の同級生のことを思い出してしまう。
やんちゃな彼女、何が原因だったのか。
結婚して3人も子どもがいるのに夫から三行半を突きつけられて-----。
私が同級生の車で奈良市内から郊外の佐紀町まで送ってもらうときに、壊れた中古の車のカーラジオから「ブルーライトヨコハマ」の歌が流れていた。
この歌に何を思ったのか彼女は道路の真ん中に車を停めて顔を覆って泣いた。
号泣していた。
この姿を今も鮮明に思い出す。
五木ひろしの歌、「不幸ぐせがとれない女」の歌詞にまた思い出す。
しかし彼女はひたすら前向きに生きているので私が思い出したところで何もない。鈍感な彼女たち、私のことはすっかり忘れて嬉々として3人は会っているだろう。私はもう羨ましくも何もない。
50歳の時に彼女たちに嫌気がさして「もうあんたらと会いたくないから」といって10年ほど会わなかった。
しかしやんちやな彼女は心も敏感、なんとかまたもとどおりに4人で会おうと試みたのが60歳になったときだった。
もう10年もたっているので同胞の同級生も人間的に変わっていると思ったがちっとも変わっていなかった。
私はずっと幼い時から会話のできない。人から何をいわれても黙っていて意見をしなかった。そんな高校時代の私をまだイメージとして残っているらしい。
しかし今は違う。
間違っていることは間違っているとはっきりといっている。
仕事の中で培ってきたもので会話もうるさいほどできるようになった。
しかし正面きって意見をいいあうことは未だにできない。
子どもの頃のそのままが私に残っている。
つい黙ってしまう。そしてとことん嫌になると無視をしてしまう。
このへんのところ同級生たちは気がついていない。
今は個性的な生き方より平凡で普通に暮らしていく。健康で1日1日を楽しく過ごすことができればいいと思っている。個性はその人の生き方が人に役に立つ人間性、またはそこに居るだけでほっとする人、そんな生き方が1番よい。
そんなことで私の子どもの頃からの性格を知っている小学校の同級生たちと会っている時が1番楽しい。私は別に1番になって人の前に立つ気もない。
みんなの側でわいわいがやがやと楽しく話しているときが楽しいです。
小学校の同級生の1人がいった言葉は名言です。
「無口なヒラカワがなんで今は6つも口あるねん」
この言葉は私にぴったりでいろんなところで使わせてもらっている。
若いときは個性のある人に憧れたが今はまったく興味がない。
私も淡々とした人生を歩いている。仕事の中ではフル回転して現場を走り回っているが仕事を離れると普通のおばちゃん。子どもの頃の私が残っている。
1人で過ごしているのが好きで1人で喫茶店に入って新聞を読んで本を読んでいる時間が私の至福の時間です。
時計は3時になった。
これから風呂に入って夕食の支度です。
「会話のできない子どもだった」と、現在、周りにいる友人・知人に話すが「うそ--。信じられない」という。
けれど本当に会話のできない子どもだったのです。
会話のできない子どもがノートにいろいろ言葉を書き並べていくうちにこれが仕事になった。
また明日---。
リビングにいるとついテレビを見てしまう。横になるとウトウトと眠ったりして少しは休養になっている。
今日の脱北者たちの講演会、北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会が主催でこの間、金正男に関する著書を出版された方も来られる。
少しこの講演会に参加したいと思って仕事のカレンダーに予定を入れていた。
けれど2月1日に少し体調を崩しているのにドタバタして仕事をしなければならなかった。
そんな様子に今回の現場は中止したほうがいいという編集局の配慮で中止をした。ここだけ会場だけでなく現場に入るともう1つのところも脱北者の支援団体が企画している大阪国際交流センターも行かないといけない。北朝鮮の現状に関係する写真や物の展示をしている会場にも入らないといけない。
午前・午後と1日の現場、そして明日5日はまた鶴橋の大阪市立舎利寺小学校で民族学級で学ぶ子どもたちの「ウリマル(母国語)カルタ大会」、韓国語のカルタ大会、これは民団大阪本部が主催で関西に所属する韓国教育院の教師たちがカルタ読みをしていく。韓国政府派遣教師の正式な発音でのカルタ取り。子どもたちはこの時ばかりになると元気になってカルタ取りをしている。
大阪府内にある小学校の民族学級で学ぶ子どもたちが一同に大阪市立舎利寺小学校に集る。応援も保護者らが見学にきて熱気溢れる体育館になる。
トーナメント形式で勝ち進んでいくが負けた子どもたちは悔しくて泣いている。
何年か前だが小学6年の男の子は「もう来年はない。卒業していくのに負けた」といって泣いていたのが印象に残っている。
カルタは最初の1回目、大阪市外教が作ったカルタを使っての大会になった。
韓国系の民族団体、民団大阪本部が主催していることからカルタにいくつか疑問があった。韓国語をそんなに熟知していない私でもいくつかのカルタが気になった。
韓国政府派遣教師は教育の立場から「これは教育現場ではよくない」という指摘で翌年から民団大阪本部が作成したカルタを使うことになった。
カルタ取りは各民族学級の講師が指導しているが大会では韓国から来られている教師が指導にあたっている。
韓国政府派遣教師の立場もある。
大阪市外国人教育研究協議会は日本に所属する教育団体、南北分断国家関係なく中立的にカルタに取り入れた。しかしこのカルタを使ってする大会、民団大阪本部が主催して韓国政府派遣教師が大会に関与することでやはり韓国で使われている言葉にしないといけないことからカルタを新しく作って民族学級に配付された。
そして子どもたちは韓国語を学ぶ姿勢が出てきた。
「韓国語をもっと覚えたいので新しい言葉のカルタを作って」という要望が昨年の大会から出始めた。来年から新しいカルタになりそうという。
子どもの声は周囲に反響を与えている。
大阪市内には日本公立小学校の中に民族学級が多く設置されている。
この子たちが社会に出ても自分のアイデンテイテイは持っている。
民団大阪本部が主催する在阪韓国人の新成人式に参加する中に小学校時代に民族学級で学んだという子どもが多い。
また高校で「朝文研」のクラブ活動に参加していた子どもたちが多い。
何らかのかたちで自分を忘れないで前に進んでいる。
日本国籍にしてもルーツをきちんと話して暮らしている。
私は京都府南部の端の小さな田舎町で生まれて育った。
私は父親に感謝をしている。
父親の教育がなかったら大人になったときに自分の民族を隠して日本国籍にしてへんてこりんな在日韓国人になっていただろう。
しかし父親はいつも口にしていた。
「国籍は隠さないこと。在日は日本の歴史が作ったのだから在日は何も悪いことしていない。堂々と胸をはって日本でいきていけばよい。そのためには真面目に生きること。真面目に生きると日本人から信頼される」
何度も何度も父親は子どもたちに話して語り教えてくれた。
いつのまにか耳に残り国籍を隠すことなくずっとこれまで人生を歩いてきた。
幸いに私の父親はきちんと教育を受けていたのでそれなりに子どもたちに歴史と国籍について話してくれた。
しかしきちんと教育を受けていない1世がほとんどである。
親たちから国籍について知識をきちんと教えてもらうことなく大人になっていく。間違った認識は在日コリアンを卑下して隠していく。隠し通していく。
そんな同級生に日本人の友人の間で私は苛めの対象にもなった。
また結婚して夫の身内からも日本国籍をとらない私に対して在日韓国人が在日韓国人にいってはならないことで私を苛めの対象にもした。
夫の身内で辛かった時代は何年かあった。
そして在日韓国人の新聞社で25年の記者生活を通して1世が日本で生きた歴史は過酷で生きるために必死だったことも知っていくと様々な形が在日コリアンだとも知っていく。
高校の同級生の数々の言葉はいったん胸の中にしまって同級生を許した。しかしその後がまたいけなかった。同胞同士の妬みなのか、嫉みなのか。
他の同級生の前でまったく他の同級生には関係がないのに私に罵詈憎悪をならべたてた。言う場所が違うのにならべたてた。これをとめようとしなかった2人の日本人の同級生にもっと気持ちが腹立たしくなった。ここのところが今も許せない。年を重ねてきたので周りに丸くならないといけないと思っているがやはり彼女たちは許せない。
鈍感な彼女たち、私が傷ついているとは知らないだろう。
たとえ知ったところで「なんやそんなことで腹たてている」と私を侮辱する材料にするだろう。
けれど今、またひそかに親しまれて歌われている「ブルーライトヨコハマ」を聞くとこの中の1人の同級生のことを思い出してしまう。
やんちゃな彼女、何が原因だったのか。
結婚して3人も子どもがいるのに夫から三行半を突きつけられて-----。
私が同級生の車で奈良市内から郊外の佐紀町まで送ってもらうときに、壊れた中古の車のカーラジオから「ブルーライトヨコハマ」の歌が流れていた。
この歌に何を思ったのか彼女は道路の真ん中に車を停めて顔を覆って泣いた。
号泣していた。
この姿を今も鮮明に思い出す。
五木ひろしの歌、「不幸ぐせがとれない女」の歌詞にまた思い出す。
しかし彼女はひたすら前向きに生きているので私が思い出したところで何もない。鈍感な彼女たち、私のことはすっかり忘れて嬉々として3人は会っているだろう。私はもう羨ましくも何もない。
50歳の時に彼女たちに嫌気がさして「もうあんたらと会いたくないから」といって10年ほど会わなかった。
しかしやんちやな彼女は心も敏感、なんとかまたもとどおりに4人で会おうと試みたのが60歳になったときだった。
もう10年もたっているので同胞の同級生も人間的に変わっていると思ったがちっとも変わっていなかった。
私はずっと幼い時から会話のできない。人から何をいわれても黙っていて意見をしなかった。そんな高校時代の私をまだイメージとして残っているらしい。
しかし今は違う。
間違っていることは間違っているとはっきりといっている。
仕事の中で培ってきたもので会話もうるさいほどできるようになった。
しかし正面きって意見をいいあうことは未だにできない。
子どもの頃のそのままが私に残っている。
つい黙ってしまう。そしてとことん嫌になると無視をしてしまう。
このへんのところ同級生たちは気がついていない。
今は個性的な生き方より平凡で普通に暮らしていく。健康で1日1日を楽しく過ごすことができればいいと思っている。個性はその人の生き方が人に役に立つ人間性、またはそこに居るだけでほっとする人、そんな生き方が1番よい。
そんなことで私の子どもの頃からの性格を知っている小学校の同級生たちと会っている時が1番楽しい。私は別に1番になって人の前に立つ気もない。
みんなの側でわいわいがやがやと楽しく話しているときが楽しいです。
小学校の同級生の1人がいった言葉は名言です。
「無口なヒラカワがなんで今は6つも口あるねん」
この言葉は私にぴったりでいろんなところで使わせてもらっている。
若いときは個性のある人に憧れたが今はまったく興味がない。
私も淡々とした人生を歩いている。仕事の中ではフル回転して現場を走り回っているが仕事を離れると普通のおばちゃん。子どもの頃の私が残っている。
1人で過ごしているのが好きで1人で喫茶店に入って新聞を読んで本を読んでいる時間が私の至福の時間です。
時計は3時になった。
これから風呂に入って夕食の支度です。
「会話のできない子どもだった」と、現在、周りにいる友人・知人に話すが「うそ--。信じられない」という。
けれど本当に会話のできない子どもだったのです。
会話のできない子どもがノートにいろいろ言葉を書き並べていくうちにこれが仕事になった。
また明日---。
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