朝から急いで近くのかかりつけの病院に出かける。
9時25分ごろ急いで歩いた。
病院の前あたりで買物カートを転がして歩いている高齢者の婦人、足がおぼつかないので私が急いで追い越して歩いた。
9時半過ぎに病院についている。
病院に着くと携帯の電源を切った。本を読む気にもなれないので新しい手帳に書き込みしたりしている。
それでも何もすることがないのでじっと院内の備え付けられたテレビに目を追っている。
10時の予約が10時過ぎて10分になった。
そしたらカート引っ張ってきた高齢者の婦人がたまたま待合でも私の隣に座られた。10時予約が10分過ぎたので私に「何時の予約ですか」と聞かれた。私は「10時です」と言ってまた黙った。
そしたらまた婦人は「今日は暑いですね」とまた話しかけられた。「そうですね」と言ってまた私は黙るとまた横で「電車に乗ってくるから時間的に大変です」と言われる。
私は電車でも西大寺あたりかなと思って「どこから来られているのですか」と聞くと「木津からです」という。木津でも西木津あたりと思ったら「JR木津からです」という。それでびっくりした。私の実家の近所の人であると思って「どのへんですか」と聞くと役場のあたりという。
私の実家も役場から少し西に向いて歩き右におれるとすぐのところが私が育ったところである。
小奇麗な婦人なので気楽な人だろうがどこかでみているが記憶にない。
そして話していると国道163号線は8メートルの道路拡張になって今、第1期の立退きが始まっているという。役場の隣の酒屋さんもそうらしい。
またこの近所にあったN銀行は国道24号線沿いに移転した。
さて高齢者の婦人の家は163号線でも西を向くと左側の家になるので立退きにならないという。
木津町は今年3月、木津川市になって着々と木津川市という町に変貌しようとしているのか。
もちろん役場は新しくなる。
裁判所は奥まったところにあるがこれはどうなるのか。
以前郵便局だったところは移転して今は町の図書館になっている。これはどうなるのだろうか。
左側の立退きになると昔からある神社が国道沿いにあるので右側の立退きになったのだろうか。
私は生まれが上狛で大里の学校前で生まれて6歳までいた。6歳のときに今の実家に移ってきた。5丁目と現在の南大路町と2つの家が売りに出ていて5丁目は子どもの通学に30分以上かかった。南大路町は家から学校まで5分とかからなかった。この家の方が大分古かったが父親は子どもの通学を考えてこの家を買ったと子どものころ話してくれたことがあった。
この話しを高齢者の婦人に話したら「そんならもう木津の人とおなじやんか」といわれて「5丁目やったら学校は遠いから南大路町でよかったんやで」と話された。この南大路町も住居表示の変遷でこの町名、今は使わないらしいが私は今も昔のままの町名を使ってしまう。
「私は結婚したのが昭和42年ですのでもう長いこと木津には住んでいません。
私の母親はものすごく苦労しました。父親は日本の会社でずっと働いていましたがほとんど家に給料はいれていません。みんな部下との飲み代に使っていました。母親が家族を養い子どもたちの教育費も出していました。それでも家では威張りちらして偉そうにしていました。それでも父親がいたから私たち子どもにも教育をつけてくれました。まあ父親は好き勝手な人生を歩いていました」と話した。
そしたら高齢者の婦人は「ものすごくろうしゃはったもんな」と言っていた。
世間は広いようで狭い。ほんまに狭い。
かつて以前、大阪府立今宮高校にもよく取材に入った。韓国の学生たちの研修交流の受け入れをしていた。そんなことでよく学校に訪問した。
そのときに何気なしに聞く言葉のニユァンスに木津弁を感じた。
そして私は思わず「校長先生の言葉が懐かしいです」という話題をきっかけに出身を訪ねあうとこの校長はまた私の実家から100メートルほど歩いたところからこの高校に通っておられた。
世間は広いようで狭い。この時も驚いた。
そしてこの木津の婦人、大きい買物カートはいつも奈良市内のスーパーで買物してバスに乗ってJR奈良駅から木津に帰るという。
今日はスーパーに寄らないで近鉄奈良駅の近くに大きい美味しいアンパンが売っているところがあるのでそれを買って帰るという。そしてそのパンを心待ちしている遠くの姉に送ると言う。
それが私はそのあんパンの売っている店はしらない。
東向き通り商店の北通りを何分か歩くとすぐ左側にあるという。1度時間をみつけていきたいが今日はほかにすることがあったので寄らないで行きつけの喫茶店で新聞読んで帰ってきた。
世間は広いようで狭い。びっくりした。
9時25分ごろ急いで歩いた。
病院の前あたりで買物カートを転がして歩いている高齢者の婦人、足がおぼつかないので私が急いで追い越して歩いた。
9時半過ぎに病院についている。
病院に着くと携帯の電源を切った。本を読む気にもなれないので新しい手帳に書き込みしたりしている。
それでも何もすることがないのでじっと院内の備え付けられたテレビに目を追っている。
10時の予約が10時過ぎて10分になった。
そしたらカート引っ張ってきた高齢者の婦人がたまたま待合でも私の隣に座られた。10時予約が10分過ぎたので私に「何時の予約ですか」と聞かれた。私は「10時です」と言ってまた黙った。
そしたらまた婦人は「今日は暑いですね」とまた話しかけられた。「そうですね」と言ってまた私は黙るとまた横で「電車に乗ってくるから時間的に大変です」と言われる。
私は電車でも西大寺あたりかなと思って「どこから来られているのですか」と聞くと「木津からです」という。木津でも西木津あたりと思ったら「JR木津からです」という。それでびっくりした。私の実家の近所の人であると思って「どのへんですか」と聞くと役場のあたりという。
私の実家も役場から少し西に向いて歩き右におれるとすぐのところが私が育ったところである。
小奇麗な婦人なので気楽な人だろうがどこかでみているが記憶にない。
そして話していると国道163号線は8メートルの道路拡張になって今、第1期の立退きが始まっているという。役場の隣の酒屋さんもそうらしい。
またこの近所にあったN銀行は国道24号線沿いに移転した。
さて高齢者の婦人の家は163号線でも西を向くと左側の家になるので立退きにならないという。
木津町は今年3月、木津川市になって着々と木津川市という町に変貌しようとしているのか。
もちろん役場は新しくなる。
裁判所は奥まったところにあるがこれはどうなるのか。
以前郵便局だったところは移転して今は町の図書館になっている。これはどうなるのだろうか。
左側の立退きになると昔からある神社が国道沿いにあるので右側の立退きになったのだろうか。
私は生まれが上狛で大里の学校前で生まれて6歳までいた。6歳のときに今の実家に移ってきた。5丁目と現在の南大路町と2つの家が売りに出ていて5丁目は子どもの通学に30分以上かかった。南大路町は家から学校まで5分とかからなかった。この家の方が大分古かったが父親は子どもの通学を考えてこの家を買ったと子どものころ話してくれたことがあった。
この話しを高齢者の婦人に話したら「そんならもう木津の人とおなじやんか」といわれて「5丁目やったら学校は遠いから南大路町でよかったんやで」と話された。この南大路町も住居表示の変遷でこの町名、今は使わないらしいが私は今も昔のままの町名を使ってしまう。
「私は結婚したのが昭和42年ですのでもう長いこと木津には住んでいません。
私の母親はものすごく苦労しました。父親は日本の会社でずっと働いていましたがほとんど家に給料はいれていません。みんな部下との飲み代に使っていました。母親が家族を養い子どもたちの教育費も出していました。それでも家では威張りちらして偉そうにしていました。それでも父親がいたから私たち子どもにも教育をつけてくれました。まあ父親は好き勝手な人生を歩いていました」と話した。
そしたら高齢者の婦人は「ものすごくろうしゃはったもんな」と言っていた。
世間は広いようで狭い。ほんまに狭い。
かつて以前、大阪府立今宮高校にもよく取材に入った。韓国の学生たちの研修交流の受け入れをしていた。そんなことでよく学校に訪問した。
そのときに何気なしに聞く言葉のニユァンスに木津弁を感じた。
そして私は思わず「校長先生の言葉が懐かしいです」という話題をきっかけに出身を訪ねあうとこの校長はまた私の実家から100メートルほど歩いたところからこの高校に通っておられた。
世間は広いようで狭い。この時も驚いた。
そしてこの木津の婦人、大きい買物カートはいつも奈良市内のスーパーで買物してバスに乗ってJR奈良駅から木津に帰るという。
今日はスーパーに寄らないで近鉄奈良駅の近くに大きい美味しいアンパンが売っているところがあるのでそれを買って帰るという。そしてそのパンを心待ちしている遠くの姉に送ると言う。
それが私はそのあんパンの売っている店はしらない。
東向き通り商店の北通りを何分か歩くとすぐ左側にあるという。1度時間をみつけていきたいが今日はほかにすることがあったので寄らないで行きつけの喫茶店で新聞読んで帰ってきた。
世間は広いようで狭い。びっくりした。
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