そのとき長崎を訪れた。1962年、44年も前のことである。それから幾年も重ねてきたのに被爆した町の人たちの気持ちは年々深くなっているように思える。ニュース番組からそう感じてしまう。
長崎の平和公園にも訪れ原爆資料館にも訪れた。
そこで見たものは戦争そのものだった。
目を覆いたくなるほどの被爆した物の数々に胸の動機がおさまらなかった。
弁当箱に張り付いた手形、人の体に入ったガラスの破片、もう私の中から記憶は薄くなってしまっているが見るも無残な物に高校生の私にも戦争の悲惨さが伝わっていた。
その後見たホテルからの長崎の夜景、当時の教師たちは「100万ドルの夜景」と言っていた。それは今から考えると教師たちは被爆した長崎市はここまで復興したのだと生徒たちに教えたかったのだろうか。
しかし私はその夜景は美しくても心底喜べなかったことを記憶している。
なんだったのか分からないがたぶん原爆投下した町に残された展示だったのだろうか。
あれから何年も経った。
高校時代に見た原爆資料館をもう1度見たいと思う気持ちがありながらなかなかそこまで行く機会がない。
福岡や北九州市に行く機会はあるのに長崎まで足が伸ばせない。
船に乗って天草五島列島めぐりもした。
船の食事を食べたのも初めてだった。
「長崎の鐘」や「天草四郎」の歌を聞くと修学旅行した当時を思い出すがバスで田舎の道を走った記憶しかよみがえってこない。それと宿泊した雲仙の町のホテル、別府のことがよみがえってくる。
関西にない湯の町を歩いた。
教師たちが「町の中をうろうろしないで早く帰って」という生徒指導の教師の声がよみがえってくる。
「はあい」と言って雲仙の町、観光の町を歩いていた。
夜更けといっても決められた時間にホテルに戻っていた。
おてんばといえどもかわいい高校生だった。
1組から8組そして定時制の9クラスが修学旅行に行ったが2班にわかれた。1組から4組まで1日早く出発する。翌日、5組から8組そして定時制が出発した。
なつかしい。大分県の田舎の町で滝廉太郎のふるさともガイドは教えてくれた。
若かった。けれど若かった人たちは高齢になっていく。
広島・長崎で被爆した人たちの高齢者の痛みがさらに深く心に刻まれているようにニユース番組から見受けられる。
戦争はしてはいけない。このことをもっと強く訴えなければならない。
日本がもっと早くポツダム宣言を受け入れていれば広島・長崎の原爆投下もなかっただろう。そして米ソの参戦はなかっただろう。そしたら朝鮮半島は分断国家にならなかっただろう。
このこと日本の国会議員が認識をしなければならない。
そのために朝鮮半島が長きにわたる分断国家になった。そして核武装疑惑がもたれる北朝鮮国家を生み出すことにもつながっている。このことを日本が認識しなければならない。
「靖国」の問題より傷深いものを日本が背負っていることを認識してもらいたい。
長崎の平和公園にも訪れ原爆資料館にも訪れた。
そこで見たものは戦争そのものだった。
目を覆いたくなるほどの被爆した物の数々に胸の動機がおさまらなかった。
弁当箱に張り付いた手形、人の体に入ったガラスの破片、もう私の中から記憶は薄くなってしまっているが見るも無残な物に高校生の私にも戦争の悲惨さが伝わっていた。
その後見たホテルからの長崎の夜景、当時の教師たちは「100万ドルの夜景」と言っていた。それは今から考えると教師たちは被爆した長崎市はここまで復興したのだと生徒たちに教えたかったのだろうか。
しかし私はその夜景は美しくても心底喜べなかったことを記憶している。
なんだったのか分からないがたぶん原爆投下した町に残された展示だったのだろうか。
あれから何年も経った。
高校時代に見た原爆資料館をもう1度見たいと思う気持ちがありながらなかなかそこまで行く機会がない。
福岡や北九州市に行く機会はあるのに長崎まで足が伸ばせない。
船に乗って天草五島列島めぐりもした。
船の食事を食べたのも初めてだった。
「長崎の鐘」や「天草四郎」の歌を聞くと修学旅行した当時を思い出すがバスで田舎の道を走った記憶しかよみがえってこない。それと宿泊した雲仙の町のホテル、別府のことがよみがえってくる。
関西にない湯の町を歩いた。
教師たちが「町の中をうろうろしないで早く帰って」という生徒指導の教師の声がよみがえってくる。
「はあい」と言って雲仙の町、観光の町を歩いていた。
夜更けといっても決められた時間にホテルに戻っていた。
おてんばといえどもかわいい高校生だった。
1組から8組そして定時制の9クラスが修学旅行に行ったが2班にわかれた。1組から4組まで1日早く出発する。翌日、5組から8組そして定時制が出発した。
なつかしい。大分県の田舎の町で滝廉太郎のふるさともガイドは教えてくれた。
若かった。けれど若かった人たちは高齢になっていく。
広島・長崎で被爆した人たちの高齢者の痛みがさらに深く心に刻まれているようにニユース番組から見受けられる。
戦争はしてはいけない。このことをもっと強く訴えなければならない。
日本がもっと早くポツダム宣言を受け入れていれば広島・長崎の原爆投下もなかっただろう。そして米ソの参戦はなかっただろう。そしたら朝鮮半島は分断国家にならなかっただろう。
このこと日本の国会議員が認識をしなければならない。
そのために朝鮮半島が長きにわたる分断国家になった。そして核武装疑惑がもたれる北朝鮮国家を生み出すことにもつながっている。このことを日本が認識しなければならない。
「靖国」の問題より傷深いものを日本が背負っていることを認識してもらいたい。
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