鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

3月18日(金)春はそこまできているのに寒い。

2011-03-18 08:28:08 | 直言!
昨日はまた寒いので電力不足になるのか節電がニュースで何度も流れる。
福島第1原発の故障、震災によるもので震災と津波の恐ろしさを見せつけられている。昨日の寒さでは電力もフル回転するが大企業などは早々と閉めていた。
百貨店も営業を短くして社員たちを早く退社させた。
これでいくらか電力が節電に繋がったと夕べのニュースでは言っていた。
あんなに被害の大きい地震災害、どうして復興していくのか。
その前に人が日常に近い暮らしに戻していくのにどうすればいいのか。
避難している人たちもかなりの不自由を強いられている。

ガソリン不足で地元の人は動けない。
また救援の物資も運ぶことができない。
どうしたらよいのか。
今は大八車もリヤカーも見かけなくなった。
やはり運ぶ手段は車である。
その車でまた思い出した。

阪神大震災で私は地震災害後、10日目に三宮に入った。
交通はまだまだ回復しておらずタクシーを利用するか徒歩しかなかった。
歩いた。歩いた。三宮から花隈そして長田界隈、帰りは元町を通って三宮に出てきた。歩いた。
歩く人を横目に通り過ぎていくのはバイクの支援隊だった。
当時、まだ在日韓国人が経営する信用組合・関西興銀があった。
職員たちはバイクで隊列に組んで走って行っては支援活動をしていた。
あのころの若い職員たち、今回の東北沖地震にどんな思いで見ているだろうか。
本当に私たち記者もそうだったが遠くから来る支援者も歩いた。歩いた。
三宮でくるとバスは出ているがまだ道路がまともに整備されていなくて阪神電車の青木駅まで2時間も3時間もかかってバスで出た。
梅田について地下鉄で灘波にでると時計はもう11時過ぎている。
最終に近い電車に乗って奈良に帰ってきた。
被災者の前では鞄に入れてあるパンを食べることも遠慮した。水を飲むことも遠慮した。灘波に着くと血の混じった尿に驚いたことがあったのでそれから人目をさけて水を飲みパンをかじった。
まだ年齢は49歳になったばかりでまだまだ動くことができた。
体重も60キロ前後だったので動くことにもそれほど苦にならなかった。
たしかヒールははかないで底の低い靴を履いて動いていた。
阪神大震災の当時のことは生涯忘れることはできないと思っていたがまた今度の東北沖大地震の災害、津波という水の恐さを思い知ることになった。
また私の記憶の中で生涯、忘れることができない災害になった。

阪神大震災当時は在日韓国人の記者も多くいた。
神戸市在住の人はバイクで走り回っていた。
そのときはとてもうらやましく思った。
そんなことを思いながら神戸の町を歩いた。
本当によく歩いた。

今日は女友だちと軽食しながらコーヒーを飲んでのおしゃべりです。
11時半に私の行きつけの喫茶店で会うことになっている。
8時半にパソコンを閉めて外出の支度をしないといけない。
今日は資料をコピーして宅急便で送る作業もあるので早く出ないといけない。

「助けてもらった命を大切にして頑張って生きていきます」という被災者の言葉がテレビから流れてくる。こんな日本人の気質が外国では高い評価を受けている。自然災害の天命と思って必死にたえている姿に外国からは精錬な気質にみえるらしい。個人個人になると弱い所もデリケートなところもたくさんもっているが人間の輪が繋がり助け合っていかなければならない境遇に遭遇すると一致団結をしていく。

この冷静な日本人気質を今、やっと分かった記憶が甦ってきた。
私の育った所は京都府相楽郡木津町(現在は木津川市)、1953年8月15日の南山城大水害に遭遇した。木津川は泉大橋の上から手が洗えるほどに水かさが増していた。地元のものは避難命令が出された。
当時はまだ妹と2人姉妹だった。父親は仕事だったのか京都からのジーゼルが不通になっていて自宅に帰ってこられなかった。
母親は柳行李に荷物を詰めて肩に担いで家を出た。
私と妹は上下、何枚も服を着せられた。
母親は当時まだ26歳だった。
地元の人に言われるままに家からすぐ近くの163号線の国道横にある角の駄菓子のところに集った。向かいにある神社の上に逃げるか、高台になる国鉄木津駅に行くか、大人たちは話していた。
しかし大人たちはわいわい騒ぐのでもなく冷静に話していた。
ただ木津川の堤防が切れると水が流れるのが早い。鉄砲水のように流れてくるから早く木津駅に行かないとあかんという大人の言葉も記憶している。
ずっと、何でみんな騒がないで水を引くのを待っていたのか。そのへんが大人になっても不思議でならなかった。やがて午前3時頃、消防団の人が「水が引きましたから自宅に戻って下さい」と言ってまわられて自宅に戻った。
このときの冷静に対応していた日本人気質、DNAが今も受け継がれていることがやっと今回の東北沖大地震で分かった。これが災害を何度も体験した環境が作ってきた気質だとやっとわかった。
翌日、京都府相楽郡一帯は大水害に見舞われた。
南山城村大河原では山崩れも起き木津川は氾濫した。
京都府綴喜郡あたりも木津川は国道24号線を乗り越えて町に水が浸水した。
天井川も氾濫して被害はさらに大きくなった。
これが南山城大水害といわれている。
高校に行くと相楽郡から生徒たちが集ってくる。
災害の記憶は高校生になっても残っていた。
同級生からその町、その町に被害を受けたことを聞くようになった。
だから水は恐いと思っているが今回の津波はまた違う被害だということも分かった。南山城大水害を体験した同級生たちは今回の東北大地震で何を思っているだろうか。夫は台風や雨が多く降ると当時住んでいた京都市内のことを思い出してあそこもここも地盤が低くて町の中はすぐに水浸しになったと話している。
子どもの頃、体験したことはずっと消えない。
そう思うと東北大地震にさまざまなことが思い浮かんでくる。

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