韓国も日本の若者たちも欧米諸国の若者と何も変わらない男女交際なのである。
朝鮮日報でこんな見出しがでるということにちょっととまどっている。かつて日本でも1960年代、私が過ごした青春は「純潔」と言う言葉があった。
キスをすることは結婚が前提だった。
そんな知識しかなかった。
そして私の高校時代は男女共学でも分別があって区別された倫理観があった。
体操着を着替えるにしても決して男子生徒の前でしないという秩序があった。男女黙認のルールを守っていた。
だから体操着になった女子生徒に胸をわくわくした男子生徒だった。
当時はトレーニングパンツをはいていたが中学時代はブルーマーだった。2の足が太ももから見える。
これは男子生徒たちは胸をわくわくドキドキさせたものだった。
高校時代は夏になると短いパンツ、ホットパンツをはいたので太ももを出して校内を歩く女子生徒の体操着に男子生徒は教室の窓からいっせいに顔を出してみていた。
そんなときはまだまだ「純潔」と言う言葉が普通に使っていた。
そして日活映画が一般市民の身近になりスターのキスシーンも画面でみられるようになった。しかしこれもまだまだスターの世界だった。
テレビでも外国映画でこんなシーンが出てくると横に親がいると見たいけれどテレビを見ないようにしていた。
時代は1970年に入り私が20代になるとIBルックが流行り外国の文化が入り始めフォークソングの流行に歌手とも身近になった。一般生活にも「神田川」の歌のように若者もいた。地方から都会にでていく若者の姿を想像した。そこで強烈な話題になった歌が「同棲時代」だった。
キスを通り越して男女の関係だった。
1980年代になると友達感覚でもキスをする風潮が見え出した。
1990年代に入ると恋愛のプロセスがなくていきなり男女関係になる行為になった。
恋愛のプロセスがないということはキスまでのプロセスもなく男女の感情の起伏も経験することない。男女関係は簡単にくっついたり離れたりするのも世間一般の風潮になり電車や町の中など一般大衆が見ている前で平気で抱き合いキスをする。若者たちが町の中で見かけるようになった。
私はそんな光景を見てこの恋愛は本物でない。本当に大事な女性だったら太守の前で見せびらかして男性はキスはしないと私の感想である。
それから日本社会の若者たちのマナーはどんどん悪くなっていった。
地べた座りもこのころからである。2000年になってから電車の中の飲食、化粧をする人、髪を解く人など自己中心の人が増えだした。
これは1970年代の10代の若者たちが自己主張しはじめたころからである。
キスも友達になればするという。そんな時代の人たちが結婚して子どもを産育てるが個人、個性を重んじた風潮が家庭にも入り物事の順番も秩序もなくなってしまった。すべてがそうだとはいわないが大方、こんな社会になってしまった。
しかし本当に好きなら恋愛はプロセスがあってひそやかに恋をするものである。
キスだって本人には恋愛の中で重大事件である。
それが何回目でキスをするデーターを見だしにした韓国の新聞に儒教文化は崩れかけているのだろうか。
しかし韓国はまだまだ家族第一で家長は父親である。一族の中にも家長がきちんといて倫理観が培われていると今も私は信じている。かつて昔在日同胞家庭にもあったものが韓国では現存していると信じている。
子どものころは窮屈だったがこんなに社会が乱れると父親の威厳は必要だと思っている。
日本人の俳優やタレントは物汚くなってしまったのは核家族化した家族構成で物事の秩序を収める父親の威厳がなくなり緊張感が脱落したからだと思っている。
韓国の男優たちは日本ではもてはやされている。
しかも中高年の女性たちである。
かつて私たちの時代はまだまだ「純潔」ということばがまかりとおっていた時代に青春を過ごした人たちである。
男女間50㌢が1番身近な距離の関係だった。あの時代の男性の強さと優しさを韓国の俳優たちには残っている。昔の青春の残りに憧れている。
だからまさか「キス」を話題にした記事がでるとは思っていなかった。
石原裕次郎や赤木圭一朗に二谷英明、川地民夫、小林旭、浜田光男に吉永小百合、日活の俳優も青春の憧れだった。スターだった。
「キス」は画面でしかしないというスターだった。そんなふうに見ていた私たち中高年の青春である。
1960年という美しいそして世界もアジアも日本も激動に向かっていたが物事の秩序があった。
平和であることはうれしい。平和と歩んだはずなのに人間社会は索漠としている。物悲しくもなる。
「キス」の言葉で胸が思わずときめいた中高年のおばちゃんの繰言である。
朝鮮日報でこんな見出しがでるということにちょっととまどっている。かつて日本でも1960年代、私が過ごした青春は「純潔」と言う言葉があった。
キスをすることは結婚が前提だった。
そんな知識しかなかった。
そして私の高校時代は男女共学でも分別があって区別された倫理観があった。
体操着を着替えるにしても決して男子生徒の前でしないという秩序があった。男女黙認のルールを守っていた。
だから体操着になった女子生徒に胸をわくわくした男子生徒だった。
当時はトレーニングパンツをはいていたが中学時代はブルーマーだった。2の足が太ももから見える。
これは男子生徒たちは胸をわくわくドキドキさせたものだった。
高校時代は夏になると短いパンツ、ホットパンツをはいたので太ももを出して校内を歩く女子生徒の体操着に男子生徒は教室の窓からいっせいに顔を出してみていた。
そんなときはまだまだ「純潔」と言う言葉が普通に使っていた。
そして日活映画が一般市民の身近になりスターのキスシーンも画面でみられるようになった。しかしこれもまだまだスターの世界だった。
テレビでも外国映画でこんなシーンが出てくると横に親がいると見たいけれどテレビを見ないようにしていた。
時代は1970年に入り私が20代になるとIBルックが流行り外国の文化が入り始めフォークソングの流行に歌手とも身近になった。一般生活にも「神田川」の歌のように若者もいた。地方から都会にでていく若者の姿を想像した。そこで強烈な話題になった歌が「同棲時代」だった。
キスを通り越して男女の関係だった。
1980年代になると友達感覚でもキスをする風潮が見え出した。
1990年代に入ると恋愛のプロセスがなくていきなり男女関係になる行為になった。
恋愛のプロセスがないということはキスまでのプロセスもなく男女の感情の起伏も経験することない。男女関係は簡単にくっついたり離れたりするのも世間一般の風潮になり電車や町の中など一般大衆が見ている前で平気で抱き合いキスをする。若者たちが町の中で見かけるようになった。
私はそんな光景を見てこの恋愛は本物でない。本当に大事な女性だったら太守の前で見せびらかして男性はキスはしないと私の感想である。
それから日本社会の若者たちのマナーはどんどん悪くなっていった。
地べた座りもこのころからである。2000年になってから電車の中の飲食、化粧をする人、髪を解く人など自己中心の人が増えだした。
これは1970年代の10代の若者たちが自己主張しはじめたころからである。
キスも友達になればするという。そんな時代の人たちが結婚して子どもを産育てるが個人、個性を重んじた風潮が家庭にも入り物事の順番も秩序もなくなってしまった。すべてがそうだとはいわないが大方、こんな社会になってしまった。
しかし本当に好きなら恋愛はプロセスがあってひそやかに恋をするものである。
キスだって本人には恋愛の中で重大事件である。
それが何回目でキスをするデーターを見だしにした韓国の新聞に儒教文化は崩れかけているのだろうか。
しかし韓国はまだまだ家族第一で家長は父親である。一族の中にも家長がきちんといて倫理観が培われていると今も私は信じている。かつて昔在日同胞家庭にもあったものが韓国では現存していると信じている。
子どものころは窮屈だったがこんなに社会が乱れると父親の威厳は必要だと思っている。
日本人の俳優やタレントは物汚くなってしまったのは核家族化した家族構成で物事の秩序を収める父親の威厳がなくなり緊張感が脱落したからだと思っている。
韓国の男優たちは日本ではもてはやされている。
しかも中高年の女性たちである。
かつて私たちの時代はまだまだ「純潔」ということばがまかりとおっていた時代に青春を過ごした人たちである。
男女間50㌢が1番身近な距離の関係だった。あの時代の男性の強さと優しさを韓国の俳優たちには残っている。昔の青春の残りに憧れている。
だからまさか「キス」を話題にした記事がでるとは思っていなかった。
石原裕次郎や赤木圭一朗に二谷英明、川地民夫、小林旭、浜田光男に吉永小百合、日活の俳優も青春の憧れだった。スターだった。
「キス」は画面でしかしないというスターだった。そんなふうに見ていた私たち中高年の青春である。
1960年という美しいそして世界もアジアも日本も激動に向かっていたが物事の秩序があった。
平和であることはうれしい。平和と歩んだはずなのに人間社会は索漠としている。物悲しくもなる。
「キス」の言葉で胸が思わずときめいた中高年のおばちゃんの繰言である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます