メールボックスに関係があるようだがその意味がわからなくて勝手に設定をさわるわけにはいかない。
こうなるといつもお世話になる人は海外出張でいない。
しょうがない。業者に頼んでメール送信ができるようにしないといけない。
今日は大阪に出かけないといけないので外出先からパソコンの業者に電話をしないといけない。
パソコンが動かなくなると気が滅入ってしまう。
息子たちは昨日、朝から自宅でパン食、ロールパンらチーズとソーセージを挟んで焼いた。また食パンでも焼いた。私は長いことマーガリンを食べていない。
2人になってからいつのまにかバターに変えたが私はジャムをつけることが多くなった。
そしてあわててウインナーソーセジをフライパンで焼いて卵を焼いた。ヨーグルトにりんごに牛乳、ジュースと出したが私が食べている時間がない。
小さなロールパンを食べて牛乳とりんごをやっとのことで食べた。
そして息子たちのフトンをたたんで干す物は干してなおすものはなおした。
さて私が外出の支度。
その前にパソコンを開けてみたが急いで立ったのでバソコン画面の下の電源を切るのを忘れたのか、消したと思っているがついていた。消していてついているなら誰か子どもがバソコンを触ったのか----。わからない。
とりあえず10時半に自宅を出て近鉄奈良駅に向かった。
近鉄奈良駅近くのモータープールに車を入れてまず銀行に言って少し引き出して3人分の飛行機代の3分の2を渡した。そして孫2人にこづかいを渡してこれで10万円近くのお金がふっとんでいった。
このあと、本屋さんに立寄って孫2人は折り紙が大好きだったので男の子の折り紙、女の子の折り紙の本を2冊買ってやった。
このあと奈良公園の興福寺に向かった。
ここで鹿と遊んで五重塔の下の階段を降りて猿沢池に行った。
多くのカメが古木に乗ってひなたぼっこしている。
多くのカメが冬眠から覚めたのだろうか。
池のあちらこちらでカメたちの顔を見え隠れしている。
これには孫たちが大変喜んでいた。
こんなに多くのカメを見るのは初めてだろう。
私も猿沢池をこんなにゆっくりと見たのは初めてだった。
ここを通ることがあってもいつ急ぎ足であるいている。
雑誌記者時代はこの池のまわりをゆっくり歩いたことは何度もあったがこんなカメが多くいなかったように記憶している。
そしてここから三条通りを下っていくと餅飯殿通りの角のお餅屋さんで持ちつきの見せてくれるところだった。
2人の男性が声を掛け合いながら蓬餅をついた。
こんな光景も孫も初めてだろう。食い入るように見ていた。
東向き商店街に入って私の行きつけの喫茶店、銀杏やさんに入った。
私にすれば久しぶりのコーヒーである。
ここで孫たちとしばらくいた。
オーナーの奥さんは孫の女の子が私そっくりと言う。私は嫁に似ているように思うが----。
このあと、車で新薬師寺に向かった。私は雑誌記者時代に宿坊の精進料理を取材したことはあったが本堂にはいっていない。
座敷で宿坊弁当を頂いて取材してそのまま帰った。
雑誌記者時代はものすごく遠いように思ったがそんなに遠くないところにある。
それでも来ていなかった。そして日々、生活に追われて猛烈に働いていた。
息子は仏像に関心があるのか新薬師寺には何度も何度も来ているという。
そんなことは知らなかった。
高校・大学と付き合ってきた彼女ときたのか。嫁さんときたのか。
沖縄の大学に行って私の実家でアルバイトをするために奈良に戻ってくるとよく固定電話に女の子から電話が入った。
今なら携帯があるが。
たいてい母親として電話を取り次ぐと自分の部屋にきりかえて長電話をしていた。
家にもよく遊びにきていた人もいた。
たいてい黙って行方を見ていたが2人の女の子だけは何回かの電話に私の直感なのだろうか。ほんまに直感で「深入りしたらあかんで」と釘をさしたことがあった。
たぶん女の子のデートで何度もきたのだろう。
ほんまにアホな男やったと私の息子ながら思う。
孫はまだ歴史のことはよく分からないが孫に話している。
「大きくなって歴史を習うようになったら奈良の町がすごいところだった」と教えている。
東大寺の説明もしていたがちょっと違う。
それは日本人の立場から見た見識である。在日コリアンから見たら違うが黙った。孫が大きくなって物の分別がつき歴史に興味があったらそして私がそれまで長生きしていたら私が東大寺をまわり韓国人の観光ボランテイアしている人に説明をしてもらおうと心の中で考えていた。
新薬師寺を見て次ぎは奈良市内にある大手の回転寿し店に入ったのが2時前、すごい多くの人で込んでいる。30分待ってやっと座れた。
昼食の後、薬師寺と唐招提寺の付近をドライブして息子が通った奈良市立都跡小学校の前を通った。
平城宮跡の前、佐紀町から法華寺と車は走った。
息子は佐紀町のあたりに来るとここから都跡小学校までバス通学していたと話し高学年になったら帰りは歩いて帰ったとは話す。しかしここで平城宮跡を横切って平城宮跡で遊んで帰ったとはいわない。孫の教育に悪いと思っているのか話さない。
法華寺から奈良市役所の行く道に入るとここから三笠中学校に通っていたので孫に話す。(中学1年の2月に現在の住居に移転している)
「お父さんはこの道を毎日自転車で走って学校に行っていた」と話していた。
孫にはどんな風に奈良の町が写っていただろうか。
そしてこのあと、JR奈良駅近くの駐車場に車を入れてホームに入って息子たちを見送った。
孫には「またきてね」と言った。
4時前に孫たちとわかれて自宅に戻り風呂を入れながら家事をして風呂に入って5時半からのテレビ番組「笑点」を見てパソコンを開けるとメールの送受信ができない。
サーバーに電話するがあちらこちらと電話のかけるところを教えていくれる。しかし肝心のトラブルのサポートセンターはずっと話中で繫がらない。
そして電話の受付は午後9時までという。
9時の時刻何分か過ぎても話中で仕方なくサーバーのホームページを開いてトラブルのサポートをメールでお願いしたが果たしてすぐできない。
業者に電話をして頼むしかない。
孫から沖縄に着いたと電話があった。
息子に替わってもらってパソコンのメール送受信ができないと話すがトラブルの原因なんて電話で聞いてもわからないという。まあその口調が母親に対する応対かと怒りたくなるがぐっとこらえる。息子からこんな強く言われたのは始めてである。
自分で考えてしたら」というが自分でできるほどパソコン技術に長けていない。
親子でも気分が悪くなって「無事に着いたとというのはわかったわ」と言って電話を切った。
しばらくパソコンに奮闘していたが修復しない。
11時にもう寝ようとトイレに行くと涙が出てきた。
思いっきり声を出して泣いていた。
私はこんな冷たい息子に育て覚えがない。奈良にいた時は私なりに自慢のできる子どもに育てたと思っていた。
沖縄に行ってものすごく人間が悪くなったと無性にそんな気持にかられてこんな息子に育て覚えがないと思うと涙がとまらない。
フトンに入っても涙がとまらない。
いろんなことがあって沖縄には2年間、行かなかった。
息子はまだもう少し親を思う気持ちがあったが家庭を持つと私の分からないことがたくさんあるようである。
しかし私は何も聞かない。
本当に心が癒えないで傷をついた私の心は話さなくなる。
黙ってしまう。
このことを息子は気がついているだろうか。
亡くなった父親のことが今さらながら思い出す。
「大学を卒業したら奈良に戻せ」と言っていた父親の気持、私のひとを思って言ってくれたいたことがずいぶん年を重ねて気がついている。
そして私の失敗を繰り返してはいけないと考えて「子どもは遠くにやったらあかん。手元から近い所の大学に通わせること」と今の若いお母さんに話している。後悔は年を重ねてからやってくる。
これから外出の支度をしよう。
今日は外は寒そうだ。
こうなるといつもお世話になる人は海外出張でいない。
しょうがない。業者に頼んでメール送信ができるようにしないといけない。
今日は大阪に出かけないといけないので外出先からパソコンの業者に電話をしないといけない。
パソコンが動かなくなると気が滅入ってしまう。
息子たちは昨日、朝から自宅でパン食、ロールパンらチーズとソーセージを挟んで焼いた。また食パンでも焼いた。私は長いことマーガリンを食べていない。
2人になってからいつのまにかバターに変えたが私はジャムをつけることが多くなった。
そしてあわててウインナーソーセジをフライパンで焼いて卵を焼いた。ヨーグルトにりんごに牛乳、ジュースと出したが私が食べている時間がない。
小さなロールパンを食べて牛乳とりんごをやっとのことで食べた。
そして息子たちのフトンをたたんで干す物は干してなおすものはなおした。
さて私が外出の支度。
その前にパソコンを開けてみたが急いで立ったのでバソコン画面の下の電源を切るのを忘れたのか、消したと思っているがついていた。消していてついているなら誰か子どもがバソコンを触ったのか----。わからない。
とりあえず10時半に自宅を出て近鉄奈良駅に向かった。
近鉄奈良駅近くのモータープールに車を入れてまず銀行に言って少し引き出して3人分の飛行機代の3分の2を渡した。そして孫2人にこづかいを渡してこれで10万円近くのお金がふっとんでいった。
このあと、本屋さんに立寄って孫2人は折り紙が大好きだったので男の子の折り紙、女の子の折り紙の本を2冊買ってやった。
このあと奈良公園の興福寺に向かった。
ここで鹿と遊んで五重塔の下の階段を降りて猿沢池に行った。
多くのカメが古木に乗ってひなたぼっこしている。
多くのカメが冬眠から覚めたのだろうか。
池のあちらこちらでカメたちの顔を見え隠れしている。
これには孫たちが大変喜んでいた。
こんなに多くのカメを見るのは初めてだろう。
私も猿沢池をこんなにゆっくりと見たのは初めてだった。
ここを通ることがあってもいつ急ぎ足であるいている。
雑誌記者時代はこの池のまわりをゆっくり歩いたことは何度もあったがこんなカメが多くいなかったように記憶している。
そしてここから三条通りを下っていくと餅飯殿通りの角のお餅屋さんで持ちつきの見せてくれるところだった。
2人の男性が声を掛け合いながら蓬餅をついた。
こんな光景も孫も初めてだろう。食い入るように見ていた。
東向き商店街に入って私の行きつけの喫茶店、銀杏やさんに入った。
私にすれば久しぶりのコーヒーである。
ここで孫たちとしばらくいた。
オーナーの奥さんは孫の女の子が私そっくりと言う。私は嫁に似ているように思うが----。
このあと、車で新薬師寺に向かった。私は雑誌記者時代に宿坊の精進料理を取材したことはあったが本堂にはいっていない。
座敷で宿坊弁当を頂いて取材してそのまま帰った。
雑誌記者時代はものすごく遠いように思ったがそんなに遠くないところにある。
それでも来ていなかった。そして日々、生活に追われて猛烈に働いていた。
息子は仏像に関心があるのか新薬師寺には何度も何度も来ているという。
そんなことは知らなかった。
高校・大学と付き合ってきた彼女ときたのか。嫁さんときたのか。
沖縄の大学に行って私の実家でアルバイトをするために奈良に戻ってくるとよく固定電話に女の子から電話が入った。
今なら携帯があるが。
たいてい母親として電話を取り次ぐと自分の部屋にきりかえて長電話をしていた。
家にもよく遊びにきていた人もいた。
たいてい黙って行方を見ていたが2人の女の子だけは何回かの電話に私の直感なのだろうか。ほんまに直感で「深入りしたらあかんで」と釘をさしたことがあった。
たぶん女の子のデートで何度もきたのだろう。
ほんまにアホな男やったと私の息子ながら思う。
孫はまだ歴史のことはよく分からないが孫に話している。
「大きくなって歴史を習うようになったら奈良の町がすごいところだった」と教えている。
東大寺の説明もしていたがちょっと違う。
それは日本人の立場から見た見識である。在日コリアンから見たら違うが黙った。孫が大きくなって物の分別がつき歴史に興味があったらそして私がそれまで長生きしていたら私が東大寺をまわり韓国人の観光ボランテイアしている人に説明をしてもらおうと心の中で考えていた。
新薬師寺を見て次ぎは奈良市内にある大手の回転寿し店に入ったのが2時前、すごい多くの人で込んでいる。30分待ってやっと座れた。
昼食の後、薬師寺と唐招提寺の付近をドライブして息子が通った奈良市立都跡小学校の前を通った。
平城宮跡の前、佐紀町から法華寺と車は走った。
息子は佐紀町のあたりに来るとここから都跡小学校までバス通学していたと話し高学年になったら帰りは歩いて帰ったとは話す。しかしここで平城宮跡を横切って平城宮跡で遊んで帰ったとはいわない。孫の教育に悪いと思っているのか話さない。
法華寺から奈良市役所の行く道に入るとここから三笠中学校に通っていたので孫に話す。(中学1年の2月に現在の住居に移転している)
「お父さんはこの道を毎日自転車で走って学校に行っていた」と話していた。
孫にはどんな風に奈良の町が写っていただろうか。
そしてこのあと、JR奈良駅近くの駐車場に車を入れてホームに入って息子たちを見送った。
孫には「またきてね」と言った。
4時前に孫たちとわかれて自宅に戻り風呂を入れながら家事をして風呂に入って5時半からのテレビ番組「笑点」を見てパソコンを開けるとメールの送受信ができない。
サーバーに電話するがあちらこちらと電話のかけるところを教えていくれる。しかし肝心のトラブルのサポートセンターはずっと話中で繫がらない。
そして電話の受付は午後9時までという。
9時の時刻何分か過ぎても話中で仕方なくサーバーのホームページを開いてトラブルのサポートをメールでお願いしたが果たしてすぐできない。
業者に電話をして頼むしかない。
孫から沖縄に着いたと電話があった。
息子に替わってもらってパソコンのメール送受信ができないと話すがトラブルの原因なんて電話で聞いてもわからないという。まあその口調が母親に対する応対かと怒りたくなるがぐっとこらえる。息子からこんな強く言われたのは始めてである。
自分で考えてしたら」というが自分でできるほどパソコン技術に長けていない。
親子でも気分が悪くなって「無事に着いたとというのはわかったわ」と言って電話を切った。
しばらくパソコンに奮闘していたが修復しない。
11時にもう寝ようとトイレに行くと涙が出てきた。
思いっきり声を出して泣いていた。
私はこんな冷たい息子に育て覚えがない。奈良にいた時は私なりに自慢のできる子どもに育てたと思っていた。
沖縄に行ってものすごく人間が悪くなったと無性にそんな気持にかられてこんな息子に育て覚えがないと思うと涙がとまらない。
フトンに入っても涙がとまらない。
いろんなことがあって沖縄には2年間、行かなかった。
息子はまだもう少し親を思う気持ちがあったが家庭を持つと私の分からないことがたくさんあるようである。
しかし私は何も聞かない。
本当に心が癒えないで傷をついた私の心は話さなくなる。
黙ってしまう。
このことを息子は気がついているだろうか。
亡くなった父親のことが今さらながら思い出す。
「大学を卒業したら奈良に戻せ」と言っていた父親の気持、私のひとを思って言ってくれたいたことがずいぶん年を重ねて気がついている。
そして私の失敗を繰り返してはいけないと考えて「子どもは遠くにやったらあかん。手元から近い所の大学に通わせること」と今の若いお母さんに話している。後悔は年を重ねてからやってくる。
これから外出の支度をしよう。
今日は外は寒そうだ。
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