冷房を入れるのがもったいないが入れた。
今日は午後2時から大阪で仕事、4時からも。4時は講演を聞くだけでよいことになった。東京でもこの講演会をするということで東京が記事をまとめてくれるので助かった。午後6時、上本町に戻っての現場、1時間ほど顔を出しても奈良行特急電車が7時40分、1時間と少しして会場を出ても家に帰ると8時半から9時の間になる。
夜遅くなると翌日応えるので遅くまでいることができない。
明日も大阪での現場がある。
夜が遅くなるのでパソコンは9時に閉めて夫の夕食を作って置かないといけない。台所に入ると暑いので冷房を入れた。
今日は慌しい1日になりそうだ。
昨日の夜、夫は飲んでいるから気が大きくなるのだろうか。
「明日の夕食はいい。俺、肉買って来て焼肉をする」と言っていた。
毎度のことで朝になると気が変わる。
また朝、今夜の夕食を確認した。
そしたら「お肉炒めておいて」という。
「それだったら夕べはそんなこと言わなくてもいいのに」と夫に言ったものの毎度のことなので牛肉を冷凍室から出した。
コンニャクを細かく切って玉葱と牛肉を一緒に炒めておくことにした。
冷蔵庫にわかめやズイキの酢の物が保存食も入っている。おそらく面倒で出して食べないだろう。皿に盛りつけるのも面倒、後で皿を洗うのも面倒、密閉容器に入れたものをそのまま出して食べると食べた箸で腐るのが早くなるのでちゃんとお皿に入れて食べてと私から怒られる。またもっと面倒くさくなって冷蔵庫から出さない。
こんなところは女性は普段、台所で惣菜を作っているので細かく考えて保存食の管理もしている。これが男性には面倒らしてい。
それで野菜食べないとまた私に怒られるのでスーパーで出来あいの野菜を買ってくる。
夫の好きな小芋の似たものにヒジキの似たものや牛蒡の似たものを買ってくる。
しかし煮炊き物は私が作るほうが美味しいが何もしたくないときは店で売っている惣菜も助かる時がある。
そんなことで昨日は手抜き、惣菜を買ってきたもので済ませた。
今日も蒸し暑い日になるという。
暑いな。
蒸し暑いけれど半袖を着ると肩の辺りが痛いのでまだ長袖を着ないといけない。
年を取ると言うことはこのことなのだろう。
今夜はおそらくブログはかけないだろうな。
明日はまた大阪に1時、また慌しい。
7月に奈良新聞の例会では「骨董のこころ・人のこころ」の演題で講演会がある。しかしこの日は行けないので残念である。
骨董が好きでテレビ番組「なんでも鑑定団」を仕事がないときはほとんど見ていている。
21日は大阪地裁が現場、裁判の訴訟の現場に入らないといけない。
北朝鮮に帰国した人が脱北して日本に戻ってこられた。
帰国運動には問題が多くありすぎた。
北朝鮮の実態をよく把握しないで帰国推進をしたことに問題があるというもの。
この裁判訴訟の現場でどんな現場になるか分からない。
裁判にかかる時間も分からない。5分程度ですむ裁判もあるが30分近くかかる物もある。この後の報告集会もどんな形になるのかわからない。
それで欠席のハガキになったがなんとも残念である。
本当に残念。無念。
奈良新聞を購読している奈良に住んでいる在日韓国人や日本の人たち、「鄭さんの名前みたで」と声をかけられる。
私はそんな有名でないのに「えっ。どこで」と怪訝な顔をすると「奈良新聞の例会の出席者に乗っている」と言う。
私は思わず「あの欄、名前見ているの。それは知らなかった」と言うと「鄭さん、出席しているのか鄭さんの名前を探している。忙しいのによく出席しているなと思って感心している」と話す。
私は「それがありがたいことにその日は現場に行く仕事がないので出席できてありがたいと思っています。私にとっては大事な会合です。在日韓国人社会の間で仕事をしていると偏る自分に恐怖を感じるのです。日本に住んでいる在日韓国人もけっして一方に偏ってはいけないと心して仕事をしています。日本社会との連携も大切にして日本社会のことも頭に入れて私なりのバランス感覚を養っています。この感性は生涯忘れてはいけないと思って奈良新聞の例会は私自信の研磨・練磨の場所です」と話すとたいていの人は「そうやな。偏ったらあかんな」と言ってくれる。
こんなことを話していると父親の顔がまた浮かんでくる。
父親は子どもたちにしつこいほど喧しく「偏ってはいけない。政治に関与するな。日本社会で生きていくのだから日本のこともよく知っていくことも努力しないといけない。日本の環境にあわすことも大事」といつも言っていた。
政治に関与するなの意味、高校時代のときはその意味がわからなかったが、その意味がやっと分かったのが結婚して何年もしてから。要するに韓国系や朝鮮系の民族団体にけっして所属してはいけないということだった。
父親は自分が吐いた言葉を生涯守りとおした。
その子どもの私が何をのたまったのか、日本人のふりをして日本の記事を書きたくない葛藤で苦しみはじめて、在日韓国人の日刊紙だった統一日報に転職した。ずっとずっと父親に隠し通した。怒られることがわかっていた。
1年半ほど隠していたが夜間中学のオモニが私の母親に話しをして父親の耳に入った。父親は何も言わず黙っていた。
しかし総連がかかる取材のときは「そこの取材に行ったらあかん」と何度も言われたのがウトロ町内の土地問題だった。そしての土地問題のことを詳細に話してくれた。それでもあちらこちらと一生懸命に仕事した。
さすが従軍慰安婦の問題の時の取材、父親は私に行った。
その中味を少し話して「いいかげんに仕事しておけ」と言った。
その意味は「そんなやっきになって取材しないでうわべだけ書いておけ」と言う意味だった。
現在の職場に転職してから父親は考えが少し緩和をした。
娘が好きな仕事でもあるが息子を大学に行かせて卒業させて社会人になるまで私の働きも家計を助けていたことは父親は知っていた。
祭祀になると叔父たちの子どもが父親の家にやってくる。
そしてその子どもたちもいる。
その子どもたちに韓国の歴史や在日コリアンの歴史を娘たちに話したように話すようになった。そしてこれ以上、勉強したいなら韓国に行って勉強すればいいと韓国に行くということが解禁になった。
娘の私が民団と関わるようになって何かのものが吹っ切れたのかもしれない。
しかし自分は韓国に行こうとしなかった。
父親の心の中には重たい歴史がある。戦前、軍儒工場に勤務して日本の軍隊の武器を作っていた重たい歴史がある。
そんなことも心に災いしていたのか韓国にけっして行こうとしなかった。
そして私が韓国に行ってきた見聞を話すと黙って聞いていた。けっして反発しなかった。
そして晋州博物館近くにかつての我が家が復元されていたことを話すと父親はすぐにピンと来た。「そのお金は分家から出している」と言った。
その意味をまた私は理解するのに時間がかかったが父親の言う通りだった。
韓国政府が建てるのに許可してもお金は分家が出していると分家を持ち上げた。
こんなことも父親はやっと安堵したのだろうか。
それから2・3年後に父親は病気になって1997年4月、76歳で他界した。
大嫌いだった父親の影響をたくさん受けている私、そして父親が大嫌いだった娘の私、父親がなくなってから気がついた。父親は大嫌いな娘だったがわが子としてそれなりに大切に育ててもらったとやっとわかった。
今はそう思っている。
在日朝鮮人は北朝鮮の金づるだったらしい。
1980年代から北朝鮮の経済は破綻、そこで朝鮮総連系の商工人がターゲットになってはかりしれないお金が北朝鮮に渡ったらしい。
そして朝鮮銀行が破綻したという。
今、読んでいるある著書、詳細に記述されている。
暗い話の内容の本で読むのに時間がかかる。少し読むと居眠りが出てくるが内容は分かりやすいので夜寝る前に少しでもと思って読破している。
その著書に書かれていた。
全部読み終わってからその著書はまたいずれ紹介をしょう。
その北朝鮮が昨日だったのか。
今朝のニュースでミサイルを発射したという。
なんともいえない事態にきている。
新聞紙上では平壌の指導者がまた体調不良を起こしていて様態がよくないとかが書かれていた。謎の国なので何が本当なのか私には分からない。
ただテレビのニュースと新聞だけが私の情報源である。
今日は慌しい1日になりそうだ。
頑張らなくちゃ。
今日は午後2時から大阪で仕事、4時からも。4時は講演を聞くだけでよいことになった。東京でもこの講演会をするということで東京が記事をまとめてくれるので助かった。午後6時、上本町に戻っての現場、1時間ほど顔を出しても奈良行特急電車が7時40分、1時間と少しして会場を出ても家に帰ると8時半から9時の間になる。
夜遅くなると翌日応えるので遅くまでいることができない。
明日も大阪での現場がある。
夜が遅くなるのでパソコンは9時に閉めて夫の夕食を作って置かないといけない。台所に入ると暑いので冷房を入れた。
今日は慌しい1日になりそうだ。
昨日の夜、夫は飲んでいるから気が大きくなるのだろうか。
「明日の夕食はいい。俺、肉買って来て焼肉をする」と言っていた。
毎度のことで朝になると気が変わる。
また朝、今夜の夕食を確認した。
そしたら「お肉炒めておいて」という。
「それだったら夕べはそんなこと言わなくてもいいのに」と夫に言ったものの毎度のことなので牛肉を冷凍室から出した。
コンニャクを細かく切って玉葱と牛肉を一緒に炒めておくことにした。
冷蔵庫にわかめやズイキの酢の物が保存食も入っている。おそらく面倒で出して食べないだろう。皿に盛りつけるのも面倒、後で皿を洗うのも面倒、密閉容器に入れたものをそのまま出して食べると食べた箸で腐るのが早くなるのでちゃんとお皿に入れて食べてと私から怒られる。またもっと面倒くさくなって冷蔵庫から出さない。
こんなところは女性は普段、台所で惣菜を作っているので細かく考えて保存食の管理もしている。これが男性には面倒らしてい。
それで野菜食べないとまた私に怒られるのでスーパーで出来あいの野菜を買ってくる。
夫の好きな小芋の似たものにヒジキの似たものや牛蒡の似たものを買ってくる。
しかし煮炊き物は私が作るほうが美味しいが何もしたくないときは店で売っている惣菜も助かる時がある。
そんなことで昨日は手抜き、惣菜を買ってきたもので済ませた。
今日も蒸し暑い日になるという。
暑いな。
蒸し暑いけれど半袖を着ると肩の辺りが痛いのでまだ長袖を着ないといけない。
年を取ると言うことはこのことなのだろう。
今夜はおそらくブログはかけないだろうな。
明日はまた大阪に1時、また慌しい。
7月に奈良新聞の例会では「骨董のこころ・人のこころ」の演題で講演会がある。しかしこの日は行けないので残念である。
骨董が好きでテレビ番組「なんでも鑑定団」を仕事がないときはほとんど見ていている。
21日は大阪地裁が現場、裁判の訴訟の現場に入らないといけない。
北朝鮮に帰国した人が脱北して日本に戻ってこられた。
帰国運動には問題が多くありすぎた。
北朝鮮の実態をよく把握しないで帰国推進をしたことに問題があるというもの。
この裁判訴訟の現場でどんな現場になるか分からない。
裁判にかかる時間も分からない。5分程度ですむ裁判もあるが30分近くかかる物もある。この後の報告集会もどんな形になるのかわからない。
それで欠席のハガキになったがなんとも残念である。
本当に残念。無念。
奈良新聞を購読している奈良に住んでいる在日韓国人や日本の人たち、「鄭さんの名前みたで」と声をかけられる。
私はそんな有名でないのに「えっ。どこで」と怪訝な顔をすると「奈良新聞の例会の出席者に乗っている」と言う。
私は思わず「あの欄、名前見ているの。それは知らなかった」と言うと「鄭さん、出席しているのか鄭さんの名前を探している。忙しいのによく出席しているなと思って感心している」と話す。
私は「それがありがたいことにその日は現場に行く仕事がないので出席できてありがたいと思っています。私にとっては大事な会合です。在日韓国人社会の間で仕事をしていると偏る自分に恐怖を感じるのです。日本に住んでいる在日韓国人もけっして一方に偏ってはいけないと心して仕事をしています。日本社会との連携も大切にして日本社会のことも頭に入れて私なりのバランス感覚を養っています。この感性は生涯忘れてはいけないと思って奈良新聞の例会は私自信の研磨・練磨の場所です」と話すとたいていの人は「そうやな。偏ったらあかんな」と言ってくれる。
こんなことを話していると父親の顔がまた浮かんでくる。
父親は子どもたちにしつこいほど喧しく「偏ってはいけない。政治に関与するな。日本社会で生きていくのだから日本のこともよく知っていくことも努力しないといけない。日本の環境にあわすことも大事」といつも言っていた。
政治に関与するなの意味、高校時代のときはその意味がわからなかったが、その意味がやっと分かったのが結婚して何年もしてから。要するに韓国系や朝鮮系の民族団体にけっして所属してはいけないということだった。
父親は自分が吐いた言葉を生涯守りとおした。
その子どもの私が何をのたまったのか、日本人のふりをして日本の記事を書きたくない葛藤で苦しみはじめて、在日韓国人の日刊紙だった統一日報に転職した。ずっとずっと父親に隠し通した。怒られることがわかっていた。
1年半ほど隠していたが夜間中学のオモニが私の母親に話しをして父親の耳に入った。父親は何も言わず黙っていた。
しかし総連がかかる取材のときは「そこの取材に行ったらあかん」と何度も言われたのがウトロ町内の土地問題だった。そしての土地問題のことを詳細に話してくれた。それでもあちらこちらと一生懸命に仕事した。
さすが従軍慰安婦の問題の時の取材、父親は私に行った。
その中味を少し話して「いいかげんに仕事しておけ」と言った。
その意味は「そんなやっきになって取材しないでうわべだけ書いておけ」と言う意味だった。
現在の職場に転職してから父親は考えが少し緩和をした。
娘が好きな仕事でもあるが息子を大学に行かせて卒業させて社会人になるまで私の働きも家計を助けていたことは父親は知っていた。
祭祀になると叔父たちの子どもが父親の家にやってくる。
そしてその子どもたちもいる。
その子どもたちに韓国の歴史や在日コリアンの歴史を娘たちに話したように話すようになった。そしてこれ以上、勉強したいなら韓国に行って勉強すればいいと韓国に行くということが解禁になった。
娘の私が民団と関わるようになって何かのものが吹っ切れたのかもしれない。
しかし自分は韓国に行こうとしなかった。
父親の心の中には重たい歴史がある。戦前、軍儒工場に勤務して日本の軍隊の武器を作っていた重たい歴史がある。
そんなことも心に災いしていたのか韓国にけっして行こうとしなかった。
そして私が韓国に行ってきた見聞を話すと黙って聞いていた。けっして反発しなかった。
そして晋州博物館近くにかつての我が家が復元されていたことを話すと父親はすぐにピンと来た。「そのお金は分家から出している」と言った。
その意味をまた私は理解するのに時間がかかったが父親の言う通りだった。
韓国政府が建てるのに許可してもお金は分家が出していると分家を持ち上げた。
こんなことも父親はやっと安堵したのだろうか。
それから2・3年後に父親は病気になって1997年4月、76歳で他界した。
大嫌いだった父親の影響をたくさん受けている私、そして父親が大嫌いだった娘の私、父親がなくなってから気がついた。父親は大嫌いな娘だったがわが子としてそれなりに大切に育ててもらったとやっとわかった。
今はそう思っている。
在日朝鮮人は北朝鮮の金づるだったらしい。
1980年代から北朝鮮の経済は破綻、そこで朝鮮総連系の商工人がターゲットになってはかりしれないお金が北朝鮮に渡ったらしい。
そして朝鮮銀行が破綻したという。
今、読んでいるある著書、詳細に記述されている。
暗い話の内容の本で読むのに時間がかかる。少し読むと居眠りが出てくるが内容は分かりやすいので夜寝る前に少しでもと思って読破している。
その著書に書かれていた。
全部読み終わってからその著書はまたいずれ紹介をしょう。
その北朝鮮が昨日だったのか。
今朝のニュースでミサイルを発射したという。
なんともいえない事態にきている。
新聞紙上では平壌の指導者がまた体調不良を起こしていて様態がよくないとかが書かれていた。謎の国なので何が本当なのか私には分からない。
ただテレビのニュースと新聞だけが私の情報源である。
今日は慌しい1日になりそうだ。
頑張らなくちゃ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます