1月に入ってからずっと日曜日は現場、2月に入っても6日まで現場に出た。
13日になってやっと現場の取材がなかった。
しかし-----。
13日は12日取材の原稿を作っていたので休んだ気がないのか。
12日の原稿を少し作った。
それにライフワークの原稿を作ったりしていた。
朝、遅く起きたせいか---、食事作りに気がせいて休んだ気にならなかったのか---。
今朝は7時50分に起きた。
簡単に家事をして8時半頃から朝食、朝食が済むと9時30分、パソコンの前に座った。昨日届いたある領事の帰任の挨拶。若いときは訪問して挨拶もしたがもう10数年、訪問をしないで電話で挨拶をしていた。
昨年からハガキに写真を入れて文書を少し作って挨拶とお世話になったお礼の言葉にしている。
本国(韓国)に関する現場になると、たいていは専門用語が入る。
私は日常会話に関して親が話していたのでたいていは聞くことができる。
ただ話すことは苦手である。そんなにできない。
日本公立学校で教育を受けている。それに親は親の考えで南北分断国家になってから双方の民族団体にいっさい、関わらないで生涯を貫いたので子どもの私たちはハングルやウリマル(母国語)に触れることを避けてきた。
父親は教えようとしたが私は「日本に住んでいるから日本語でいい」と言って反発して覚えようとしなかった。このへんも父親には気にいらない子どもだった。
私の人生、42歳で反転して韓国語と接する生活になった。
日常会話的なことは韓国語で聞いて頭の中で日本語に訳して取材ノートには乱雑な日本語でメモしている。
しかし本国になるとたいていは経済、文化と専門的用語が多く、どうしても本国関係者に通訳をしてもらっていた。お世話になった。
若いとき、本国関係者は私より年上の方が赴任してこられていたのでよく言われた。
「ハングマル ヨルシミ コンブ ハセヨ(韓国語 一生懸命 勉強しなさい)」と。
しかしここ数年、そんな言葉を聞かなくなった。
なぜかというと赴任してこられる人は50代前後の人で私がはるかに年輩、女性と言っても年輩、韓国はそうした礼儀は秩序よく守られているので女性、そしてただ一介の新聞記者に過ぎないのにかならず私を立てて話をされる。
そんなときはこの世界で長いことをしてきたな----。
もうそろそろ引退時ともふと思ってしまうが----。
そんなことをもうすっかり忘れて書くことが好きな私は現場に入っている。
ただ私の言葉がうまくなったのが1つだけある。
本国の人に会うと「ハングマル チャル モッタニカ ミヤナミダ(韓国語をよくできませんのですみません)」と。またこの発音、繰り返し使っているとこの言葉は上手くなった。そして必ずや本国の人は「チュラシネヨ(よくされます)」と。そのとき私は「イーパッケ(これだけ)」と言うとそれで周りは爆笑になっている。
こんなキャラクターで現場をかけまわっている。
今回、総領事の帰任で多くの領事たちが帰任される。
今度、赴任される総領事は私がこの仕事をしている時に大阪に赴任しておられるのでお会いしている。名前で記憶がある。
硯が入っている。日本の硯かなと思ったことがあるが---。顔を見るとまた思い出すだろう。
民団大阪そして傘下団体の幹部たちは今、大忙しい。歓送迎会で----。
若いときはそんな席に参加したこともあるがもうそんなところにでなくなって久しい。仕事が終わればほとんど家路に向かう。
飲み会に食事会の席はほとんどもう参加しなくなった。
仕事が終われば早く帰りたいだけ----。
韓国から新しい総領事が赴任されるとまた民団大阪本部で支部役員らにもそうしたことをしないといけないので日程を決めて5階ホールで盛大に歓迎会が行われる。そのときに出席して新しく赴任される本国関係者にお目にかかることしよう。
4月にはされるだろ。
3年の着任をして赴任先から本国に帰国か他のところに赴任される。
教育をする子どもさんを抱えている人は大変である。
大学生のお子さんがおられると赴任先と韓国の二重所帯、大変だろうと思っている。
日本もこうして日本経済構築をして先進国にしてきた。
その活力、エネルギーは今の若者たちにあるのだろうか。
海外赴任や単身赴任を拒否する人も増えているとか----。
日本人の気質がどこから違ってきたのか。
日本人気質、覇気の見直しをしないといけない。
戦前、戦後を生き抜いた日本人たちは日本の国をよくするために働いた。
働かないと何も生まれない。
机上の論理、運動論理では経済が構築できない。
韓国は1950年代から60年代、南北分断国家論理に民主主義論理、日本に対する非難の理論を繰り返してきたが1970年代から韓国は働く、世界に向けての働きはやがて経済構築の基礎を作ってきた。
今、韓国は世界に向かって経済・文化などが進出している。
中国の壁に当たりながらも活力をみなぎらせている。
ここが日本は違う。安定した平和の日本で胡座かいてきた。
企業が中国に進出していく。しかし日本の若者たちの雇用が問題になってきた。
これをどうするのか。
今の政権では土台無理だと分かった。政権を取ってから無理だと分かった。
自民党もこれまでしてきたことに誉められたものではない。
しかし民主党---。運動を母体にして発達したが頭の上の論理で行動とるということにかけている。そんな気がしてならないのは私だけだろうか。
2月と8月は韓国の公務員の異動期、今年の2月の帰任者は多くなりそうだ。
皆にお世話になった。
体調管理してこれからも仕事に邁進して頂きたい。ただ祈るだけです。
もう時計は11時、このマンションの4階に鳩が卵を産んだのか電線や向かいのマンションから数羽の鳩がとまって監視している。
時々鳩2羽が4階のベランダに入るので卵を産んで雛が生まれたように思う。
鳩も発情期になってきたのか---。
朝、ベランダに洗濯を干しに行くと糞が1つあった。すぐ拭き取ったのに部屋でパソコンをしている間に2つの糞をまたしていた。また拭き取った。
糞は見たらすぐに拭き取る。ベランダに何も置かない。これをすると鳩は卵を産まなくなる。ベランダに鉢植えなど置くと必ずその隙間に巣作りをして卵を産んでいる。
さて写真の電柱に写る蛍光灯、夜6時過ぎに何気なくベランダの外を見ると電柱に蛍光灯が入っているように写っている。なんでも珍百系に出せそうな電柱である。写真に撮った。
朝、起きてその電柱を見ると蛍光灯の傘が見えている。
夜になると蛍光灯がついて、あたかも電柱に蛍光灯が埋め込まれてるいるように見えていると分かったが----。電柱のそばまで行って確認しないといけない。
来週には病院に行くのでこの道を通るので確認してみよう。
写真は2月18日、夕方6時過ぎに撮影。
13日になってやっと現場の取材がなかった。
しかし-----。
13日は12日取材の原稿を作っていたので休んだ気がないのか。
12日の原稿を少し作った。
それにライフワークの原稿を作ったりしていた。
朝、遅く起きたせいか---、食事作りに気がせいて休んだ気にならなかったのか---。
今朝は7時50分に起きた。
簡単に家事をして8時半頃から朝食、朝食が済むと9時30分、パソコンの前に座った。昨日届いたある領事の帰任の挨拶。若いときは訪問して挨拶もしたがもう10数年、訪問をしないで電話で挨拶をしていた。
昨年からハガキに写真を入れて文書を少し作って挨拶とお世話になったお礼の言葉にしている。
本国(韓国)に関する現場になると、たいていは専門用語が入る。
私は日常会話に関して親が話していたのでたいていは聞くことができる。
ただ話すことは苦手である。そんなにできない。
日本公立学校で教育を受けている。それに親は親の考えで南北分断国家になってから双方の民族団体にいっさい、関わらないで生涯を貫いたので子どもの私たちはハングルやウリマル(母国語)に触れることを避けてきた。
父親は教えようとしたが私は「日本に住んでいるから日本語でいい」と言って反発して覚えようとしなかった。このへんも父親には気にいらない子どもだった。
私の人生、42歳で反転して韓国語と接する生活になった。
日常会話的なことは韓国語で聞いて頭の中で日本語に訳して取材ノートには乱雑な日本語でメモしている。
しかし本国になるとたいていは経済、文化と専門的用語が多く、どうしても本国関係者に通訳をしてもらっていた。お世話になった。
若いとき、本国関係者は私より年上の方が赴任してこられていたのでよく言われた。
「ハングマル ヨルシミ コンブ ハセヨ(韓国語 一生懸命 勉強しなさい)」と。
しかしここ数年、そんな言葉を聞かなくなった。
なぜかというと赴任してこられる人は50代前後の人で私がはるかに年輩、女性と言っても年輩、韓国はそうした礼儀は秩序よく守られているので女性、そしてただ一介の新聞記者に過ぎないのにかならず私を立てて話をされる。
そんなときはこの世界で長いことをしてきたな----。
もうそろそろ引退時ともふと思ってしまうが----。
そんなことをもうすっかり忘れて書くことが好きな私は現場に入っている。
ただ私の言葉がうまくなったのが1つだけある。
本国の人に会うと「ハングマル チャル モッタニカ ミヤナミダ(韓国語をよくできませんのですみません)」と。またこの発音、繰り返し使っているとこの言葉は上手くなった。そして必ずや本国の人は「チュラシネヨ(よくされます)」と。そのとき私は「イーパッケ(これだけ)」と言うとそれで周りは爆笑になっている。
こんなキャラクターで現場をかけまわっている。
今回、総領事の帰任で多くの領事たちが帰任される。
今度、赴任される総領事は私がこの仕事をしている時に大阪に赴任しておられるのでお会いしている。名前で記憶がある。
硯が入っている。日本の硯かなと思ったことがあるが---。顔を見るとまた思い出すだろう。
民団大阪そして傘下団体の幹部たちは今、大忙しい。歓送迎会で----。
若いときはそんな席に参加したこともあるがもうそんなところにでなくなって久しい。仕事が終わればほとんど家路に向かう。
飲み会に食事会の席はほとんどもう参加しなくなった。
仕事が終われば早く帰りたいだけ----。
韓国から新しい総領事が赴任されるとまた民団大阪本部で支部役員らにもそうしたことをしないといけないので日程を決めて5階ホールで盛大に歓迎会が行われる。そのときに出席して新しく赴任される本国関係者にお目にかかることしよう。
4月にはされるだろ。
3年の着任をして赴任先から本国に帰国か他のところに赴任される。
教育をする子どもさんを抱えている人は大変である。
大学生のお子さんがおられると赴任先と韓国の二重所帯、大変だろうと思っている。
日本もこうして日本経済構築をして先進国にしてきた。
その活力、エネルギーは今の若者たちにあるのだろうか。
海外赴任や単身赴任を拒否する人も増えているとか----。
日本人の気質がどこから違ってきたのか。
日本人気質、覇気の見直しをしないといけない。
戦前、戦後を生き抜いた日本人たちは日本の国をよくするために働いた。
働かないと何も生まれない。
机上の論理、運動論理では経済が構築できない。
韓国は1950年代から60年代、南北分断国家論理に民主主義論理、日本に対する非難の理論を繰り返してきたが1970年代から韓国は働く、世界に向けての働きはやがて経済構築の基礎を作ってきた。
今、韓国は世界に向かって経済・文化などが進出している。
中国の壁に当たりながらも活力をみなぎらせている。
ここが日本は違う。安定した平和の日本で胡座かいてきた。
企業が中国に進出していく。しかし日本の若者たちの雇用が問題になってきた。
これをどうするのか。
今の政権では土台無理だと分かった。政権を取ってから無理だと分かった。
自民党もこれまでしてきたことに誉められたものではない。
しかし民主党---。運動を母体にして発達したが頭の上の論理で行動とるということにかけている。そんな気がしてならないのは私だけだろうか。
2月と8月は韓国の公務員の異動期、今年の2月の帰任者は多くなりそうだ。
皆にお世話になった。
体調管理してこれからも仕事に邁進して頂きたい。ただ祈るだけです。
もう時計は11時、このマンションの4階に鳩が卵を産んだのか電線や向かいのマンションから数羽の鳩がとまって監視している。
時々鳩2羽が4階のベランダに入るので卵を産んで雛が生まれたように思う。
鳩も発情期になってきたのか---。
朝、ベランダに洗濯を干しに行くと糞が1つあった。すぐ拭き取ったのに部屋でパソコンをしている間に2つの糞をまたしていた。また拭き取った。
糞は見たらすぐに拭き取る。ベランダに何も置かない。これをすると鳩は卵を産まなくなる。ベランダに鉢植えなど置くと必ずその隙間に巣作りをして卵を産んでいる。
さて写真の電柱に写る蛍光灯、夜6時過ぎに何気なくベランダの外を見ると電柱に蛍光灯が入っているように写っている。なんでも珍百系に出せそうな電柱である。写真に撮った。
朝、起きてその電柱を見ると蛍光灯の傘が見えている。
夜になると蛍光灯がついて、あたかも電柱に蛍光灯が埋め込まれてるいるように見えていると分かったが----。電柱のそばまで行って確認しないといけない。
来週には病院に行くのでこの道を通るので確認してみよう。
写真は2月18日、夕方6時過ぎに撮影。
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