8時半にパソコンを閉めた。
どうも眠たい。
とりあえず布団の中に入った。
雑誌の読みかけを読んだが少し読んでやめた。
そして寝た。
40分程度、寝ただろうか。
すっきりした。
起きると9時、顔を洗って化粧していると10時半、服を着替えてバス乗り場に行くと39分、中循環バスが44分、もうすぐ来るのに市内循環、道路を渡って奈良公園周りを乗った。
奈良公園の雪景色が気になった。
もう大方、昨日の雪はとけているが屋根にはまだ雪が積もっている。
奈良公園の飛火野に来るとまだ雪が芝生には残っている。
土のところは雪がなくなっていたが芝生のところはまだ残っていた。
春日の森の木々にもまだ雪がまだらに残っていた。
そして東大寺の参道あたりに来ると食べ物の露店が出ていた。
思い出した。瑠璃絵のイベントだった。
寒いのに---と、思った。
行きつけの喫茶店に着くと11時、常連の男性客の集まりの1人が昨日、瑠璃絵に行ってきたという。場所は奈良県公会堂の前の奈良公園という。
きれいかったという。
行きつけの喫茶店を出たのは12時18分ぐらい。近鉄奈良駅に行くと23分の大阪難波行き急行が発車する寸前だった。
階段を急いで下りてひっくりかえると恐いので1台、電車を遅らせた。
37分の快速急行三宮行きに乗った。
鶴橋に下りたのは1時10分、急いで韓国市場に行った。
夫の好きな食材を買って近鉄鶴橋駅に戻ってきてロッカーに食材を入れた。
そしてまた電車に乗って布施駅に向かった。
布施駅から歩いて10数分のところ行く現場がある。タクシーに乗ればワンメーターだが歩くと遠い。タクシーに乗った。大阪の町はすっかり雪がなくなっていた。
ここで仕事をして出たのが4時半、ここからタクシーに乗って鶴橋駅に向かった。駅に着くと44分、49分の奈良行き特急があるがローカーに韓国食材が入っているので次の電車に乗ることにした。
間隔が短くて5時1分にある。
特急券売り場、前の人が長いことかかっている。
なんとか特急券を買った。
トイレを済ませてホームに行く。
少し待つと電車が来た。
電車は生駒トンネルを越えると屋根や線路の土手、田んぼなどに雪が残っていた。やはり奈良の方が気温が低いのだろう。
奈良に着くと5時40分、自宅に戻ると6時---また夕食の支度にバタバタした。
行きつけの喫茶店で常連の人に10日、ここで高橋恵子さんに会ったことを話すと、偶然、高橋伴明さんの家に近くに住んでいたと話してくれた。
奈良市○○町、通っていた小学校もわかった。
そして喫茶店経営の奥さんも見たのでお花を生けておられたのは--。
そしたらまた違う人だった。
家の近所に住んでおられた方が話された。年は1歳違いらしい。高橋伴明さんは勉強できて優秀だったという。
なるほど----。そして高橋恵子さんが東向き通り商店街を歩いておられのはそこからまっすぐ東向き北通りから横断歩道を渡って東向き南通り商店街に入って高橋伴明さんの実家に行く道だったと分かった。
それで奈良市内をよく歩いておられて喫茶店の店員さんもよくお見かけしておられたのだろう。
またこれから奈良に来られるだろう。
運がよかったらまた会えるでしょうと思っている。
パソコンは途中で中断して韓国テレビ「ジャンアント」を見ていた。
半分は恐い場面でこの場面は新聞見たりしていてみていない。
あらすじは、60話、全部読んだのにテレビになると迫力があって恐すぎて見ることができない。
全斗煥大統領の政権と安企部と企業と絡む人間関係、実話なのかフィクションなのか---。たぶん1980年代は韓国の国作りの発展途上国、テレビに出てくることはあっただろうと思っている。
韓国の国家作り、日本植民地支配から解放された。南北分断国家になって人間は生きていかなければならない。国を作らないといけない。先人たちの汗と血と涙の歴史の一端を見るようだ。
今日、取材したところである高齢者の1世が言っていた。
日本で汗をかいて働き少し貯めては韓国に持っていき韓国の家族を助けてきた。
それでも在日韓国人の生き様を知っている人はいなかったと、心寂しく話しておられた。在日韓国人の先人たちも日本社会で生きて日本と韓国の両方に寄与して生きてきた。この生き様は2世から3世と語り継がないといけないとまた思った。
遅くなった。もう時計は10時半です。
どうも眠たい。
とりあえず布団の中に入った。
雑誌の読みかけを読んだが少し読んでやめた。
そして寝た。
40分程度、寝ただろうか。
すっきりした。
起きると9時、顔を洗って化粧していると10時半、服を着替えてバス乗り場に行くと39分、中循環バスが44分、もうすぐ来るのに市内循環、道路を渡って奈良公園周りを乗った。
奈良公園の雪景色が気になった。
もう大方、昨日の雪はとけているが屋根にはまだ雪が積もっている。
奈良公園の飛火野に来るとまだ雪が芝生には残っている。
土のところは雪がなくなっていたが芝生のところはまだ残っていた。
春日の森の木々にもまだ雪がまだらに残っていた。
そして東大寺の参道あたりに来ると食べ物の露店が出ていた。
思い出した。瑠璃絵のイベントだった。
寒いのに---と、思った。
行きつけの喫茶店に着くと11時、常連の男性客の集まりの1人が昨日、瑠璃絵に行ってきたという。場所は奈良県公会堂の前の奈良公園という。
きれいかったという。
行きつけの喫茶店を出たのは12時18分ぐらい。近鉄奈良駅に行くと23分の大阪難波行き急行が発車する寸前だった。
階段を急いで下りてひっくりかえると恐いので1台、電車を遅らせた。
37分の快速急行三宮行きに乗った。
鶴橋に下りたのは1時10分、急いで韓国市場に行った。
夫の好きな食材を買って近鉄鶴橋駅に戻ってきてロッカーに食材を入れた。
そしてまた電車に乗って布施駅に向かった。
布施駅から歩いて10数分のところ行く現場がある。タクシーに乗ればワンメーターだが歩くと遠い。タクシーに乗った。大阪の町はすっかり雪がなくなっていた。
ここで仕事をして出たのが4時半、ここからタクシーに乗って鶴橋駅に向かった。駅に着くと44分、49分の奈良行き特急があるがローカーに韓国食材が入っているので次の電車に乗ることにした。
間隔が短くて5時1分にある。
特急券売り場、前の人が長いことかかっている。
なんとか特急券を買った。
トイレを済ませてホームに行く。
少し待つと電車が来た。
電車は生駒トンネルを越えると屋根や線路の土手、田んぼなどに雪が残っていた。やはり奈良の方が気温が低いのだろう。
奈良に着くと5時40分、自宅に戻ると6時---また夕食の支度にバタバタした。
行きつけの喫茶店で常連の人に10日、ここで高橋恵子さんに会ったことを話すと、偶然、高橋伴明さんの家に近くに住んでいたと話してくれた。
奈良市○○町、通っていた小学校もわかった。
そして喫茶店経営の奥さんも見たのでお花を生けておられたのは--。
そしたらまた違う人だった。
家の近所に住んでおられた方が話された。年は1歳違いらしい。高橋伴明さんは勉強できて優秀だったという。
なるほど----。そして高橋恵子さんが東向き通り商店街を歩いておられのはそこからまっすぐ東向き北通りから横断歩道を渡って東向き南通り商店街に入って高橋伴明さんの実家に行く道だったと分かった。
それで奈良市内をよく歩いておられて喫茶店の店員さんもよくお見かけしておられたのだろう。
またこれから奈良に来られるだろう。
運がよかったらまた会えるでしょうと思っている。
パソコンは途中で中断して韓国テレビ「ジャンアント」を見ていた。
半分は恐い場面でこの場面は新聞見たりしていてみていない。
あらすじは、60話、全部読んだのにテレビになると迫力があって恐すぎて見ることができない。
全斗煥大統領の政権と安企部と企業と絡む人間関係、実話なのかフィクションなのか---。たぶん1980年代は韓国の国作りの発展途上国、テレビに出てくることはあっただろうと思っている。
韓国の国家作り、日本植民地支配から解放された。南北分断国家になって人間は生きていかなければならない。国を作らないといけない。先人たちの汗と血と涙の歴史の一端を見るようだ。
今日、取材したところである高齢者の1世が言っていた。
日本で汗をかいて働き少し貯めては韓国に持っていき韓国の家族を助けてきた。
それでも在日韓国人の生き様を知っている人はいなかったと、心寂しく話しておられた。在日韓国人の先人たちも日本社会で生きて日本と韓国の両方に寄与して生きてきた。この生き様は2世から3世と語り継がないといけないとまた思った。
遅くなった。もう時計は10時半です。
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