成人式と一緒にされる山焼きは全国に知れ渡っていた。
それが成人の日が変わって山焼きもいつされるのか分からなくなった。こんなことも自分たちの都合のいいようにされているのか奈良県民の住民投票もなく山焼きの日程も変えられていく。
もうなにも秩序も何もなくなった。
日本古来の大和の年中行事が古の都からも秩序が乱れている。
なんかへんである。
今日、大阪で仕事を終えて2時過ぎに奈良についた。新聞を2紙読んでいなかったので行きつけの喫茶店に行って新聞を読んで4時前にバス停に行くと市内バスの近周りが最寄の駅の所在地のランプがついているところからなかなかバスが進んでいない。
年寄りの人は大和の年中行事に関心があるのか「今日は山焼きや。だから車が渋滞しているんや」と話している。
そうだった。夫が今朝、そういえば山焼きと言っていた。
4時のバス停、冷たい風が体に染みてくる。冬の寒気である。
やっとバスが来て自宅に戻った。
30分ほど座って夕食の支度をしていると、どーん、どーん、5時50分ごろから大きい音がした。またマンションの階上の人が家具でも動かしているのだろうかと思った。
そしてそのどーん、どーん、と続く音に思い出した。
6時点火の前のアトラクション、花火が上がっていた。
あわてて東側のベランダの戸を開けた。
大輪の花火が上がっていた。風が冷たいのでベランダの戸を閉めて椅子を持ってきて腰かけてみていた。
大輪の花火が夜空で咲いていた。花火は幾つの年齢になっても夢があるような気になってしまう。ロマンが夜空にあるような気がする。
花火の打ち上げが終わると6時になった。
消防隊員が灯りで山を照らしているところが何度も暗闇から見える。
そしてまず山の上あたり右側に点火されると左側の山裾に点火された。そして次々と四方から点火されていく。
炎がゆっくり山裾から上に上りながら燃えていく。
この写真は6時15分ごろの写真である。
建物の間から撮ってみた。
写真技術が未熟なので建物の間からどこか火事を起こっているような写真になった。しかしこれは若草山焼きの写真である。
6時半になると山の中腹あたりにまで燃えていた。
ゆっくりかけあがった炎はよく燃えていた。
7時前に山は消えていた。消防隊員が消したのだろう。
ふたたび若草山はいつもと同じように暗闇になった。
今年も大和の年中行事が終わった。
「無病息災」、今年も願う気持ちで炎を見ていた。
いつの時代も奈良の人々はこうして山焼きを静かに見守ってきたのだろう。
奈良県、大和は古代朝鮮の渡来文化の宝庫である。
この山焼きの渡来人が伝えたものだろうか。
そんなことを思いながら今年の山焼きを静かに見ていた。
夫は自宅に戻る道中で花火を見たという。
夫も花火の美しさを話していた。花火はやはり老若男女問わず心のどこかで何かを響かせるものがあるのだろう。
こんなことを書き込みながら、雑誌記者時代、大和の年中行事を雑誌に紹介する原稿も担当していた。その中の資料「大和の年中行事」の著書はたくさん事務所にあったが私も個人用に1冊買っていた。退職するときにその著書は持って帰った。
この書籍はすぐには必要ないかもしれないが雑誌記者時代の思い出の本でまたいつかは必要になるかもしれないと考えて家の大掃除の時、700冊の書籍を捨てたのにこの本は本棚に残して置いた。
今夜、ジャーナリスト・ネットでテレビより早く山焼きの写真を見せたいと思って書き込みをするときに久しぶりにこの本を出してきた。
目次のところがはがれていたので後で修復をしておかなければならない。
あの当時、インスタントカメラで写真を撮っていた。山焼きは撮影に行かなかった。どこかのパンフから撮って山焼きのことを紹介していた。
そして翌日の地方紙の新聞に山焼きの写真が掲載されていた。
同僚の報道カメラマンの撮影で名前を見れば知っている人たちだった。
みんな上手く撮っていた。
若草山焼きになると翌日の朝刊の山焼き、カラー写真を1番最初に見たものだった。あれから20年以上もたつのにこの間のように思い出す。
カメラに愛着を持っていた人の撮影は山焼きの写真から温かさが伝わった。
40歳前後の私はまだまだ希望を持って駆けずり回っていた。
楽しかった。書くことが楽しかった。
まさか「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」という民族と自分との葛藤になるとはまだまだ気がつかなかったころだった。
このころは書くことが楽しかった。まだまだ未熟な記者だったので書くことが楽しかった。
素人だった主婦の私を諸先輩たちが気長く見守って下さった。
年を重ねて今更ながらまた感謝の気持ちを思う。
そして奈良県の人たちも見守って下さったことにもこの年になって気がついている。
今年の山焼き、写真をとってゆっくりと炎の上がっていくの見ていてそんなことを考えていた。
それが成人の日が変わって山焼きもいつされるのか分からなくなった。こんなことも自分たちの都合のいいようにされているのか奈良県民の住民投票もなく山焼きの日程も変えられていく。
もうなにも秩序も何もなくなった。
日本古来の大和の年中行事が古の都からも秩序が乱れている。
なんかへんである。
今日、大阪で仕事を終えて2時過ぎに奈良についた。新聞を2紙読んでいなかったので行きつけの喫茶店に行って新聞を読んで4時前にバス停に行くと市内バスの近周りが最寄の駅の所在地のランプがついているところからなかなかバスが進んでいない。
年寄りの人は大和の年中行事に関心があるのか「今日は山焼きや。だから車が渋滞しているんや」と話している。
そうだった。夫が今朝、そういえば山焼きと言っていた。
4時のバス停、冷たい風が体に染みてくる。冬の寒気である。
やっとバスが来て自宅に戻った。
30分ほど座って夕食の支度をしていると、どーん、どーん、5時50分ごろから大きい音がした。またマンションの階上の人が家具でも動かしているのだろうかと思った。
そしてそのどーん、どーん、と続く音に思い出した。
6時点火の前のアトラクション、花火が上がっていた。
あわてて東側のベランダの戸を開けた。
大輪の花火が上がっていた。風が冷たいのでベランダの戸を閉めて椅子を持ってきて腰かけてみていた。
大輪の花火が夜空で咲いていた。花火は幾つの年齢になっても夢があるような気になってしまう。ロマンが夜空にあるような気がする。
花火の打ち上げが終わると6時になった。
消防隊員が灯りで山を照らしているところが何度も暗闇から見える。
そしてまず山の上あたり右側に点火されると左側の山裾に点火された。そして次々と四方から点火されていく。
炎がゆっくり山裾から上に上りながら燃えていく。
この写真は6時15分ごろの写真である。
建物の間から撮ってみた。
写真技術が未熟なので建物の間からどこか火事を起こっているような写真になった。しかしこれは若草山焼きの写真である。
6時半になると山の中腹あたりにまで燃えていた。
ゆっくりかけあがった炎はよく燃えていた。
7時前に山は消えていた。消防隊員が消したのだろう。
ふたたび若草山はいつもと同じように暗闇になった。
今年も大和の年中行事が終わった。
「無病息災」、今年も願う気持ちで炎を見ていた。
いつの時代も奈良の人々はこうして山焼きを静かに見守ってきたのだろう。
奈良県、大和は古代朝鮮の渡来文化の宝庫である。
この山焼きの渡来人が伝えたものだろうか。
そんなことを思いながら今年の山焼きを静かに見ていた。
夫は自宅に戻る道中で花火を見たという。
夫も花火の美しさを話していた。花火はやはり老若男女問わず心のどこかで何かを響かせるものがあるのだろう。
こんなことを書き込みながら、雑誌記者時代、大和の年中行事を雑誌に紹介する原稿も担当していた。その中の資料「大和の年中行事」の著書はたくさん事務所にあったが私も個人用に1冊買っていた。退職するときにその著書は持って帰った。
この書籍はすぐには必要ないかもしれないが雑誌記者時代の思い出の本でまたいつかは必要になるかもしれないと考えて家の大掃除の時、700冊の書籍を捨てたのにこの本は本棚に残して置いた。
今夜、ジャーナリスト・ネットでテレビより早く山焼きの写真を見せたいと思って書き込みをするときに久しぶりにこの本を出してきた。
目次のところがはがれていたので後で修復をしておかなければならない。
あの当時、インスタントカメラで写真を撮っていた。山焼きは撮影に行かなかった。どこかのパンフから撮って山焼きのことを紹介していた。
そして翌日の地方紙の新聞に山焼きの写真が掲載されていた。
同僚の報道カメラマンの撮影で名前を見れば知っている人たちだった。
みんな上手く撮っていた。
若草山焼きになると翌日の朝刊の山焼き、カラー写真を1番最初に見たものだった。あれから20年以上もたつのにこの間のように思い出す。
カメラに愛着を持っていた人の撮影は山焼きの写真から温かさが伝わった。
40歳前後の私はまだまだ希望を持って駆けずり回っていた。
楽しかった。書くことが楽しかった。
まさか「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」という民族と自分との葛藤になるとはまだまだ気がつかなかったころだった。
このころは書くことが楽しかった。まだまだ未熟な記者だったので書くことが楽しかった。
素人だった主婦の私を諸先輩たちが気長く見守って下さった。
年を重ねて今更ながらまた感謝の気持ちを思う。
そして奈良県の人たちも見守って下さったことにもこの年になって気がついている。
今年の山焼き、写真をとってゆっくりと炎の上がっていくの見ていてそんなことを考えていた。
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