とにかく夕方まで晴れて欲しい。イベントの準備する人も大変、後片付けするのも大変、しかし今も李煕健氏の精神が受け継がれている。
李煕健氏は1950年代に信用組合大阪興銀を大きくして理事長になり関西興銀にした。鶴橋を拠点にして韓国市場の経営者らに日掛け貯金を進めて店の経営にも尽力してきた。もう1つ大阪商銀の信用組合もあって在日韓国人の関西経済基盤の尽力者とも言っても過言ではない。
それが関西興銀は倒産した。巷では日本政府がつぶしたというのが普通だが裏はそんなことではない。もっともっと政治的なものがあった。
李煕健氏は今も高齢だが健在である。
李煕健氏は日本で暮らした差別と蔑視、辛酸を体験したことは次世代に繋いではいけない。次世代に韓日の歴史を正しく理解していく。まず日本人の歴史認識の変革と考えて四天王寺ワッソというイベントの開催に奔走された。関西興銀の全職員を借り出してのイベント開催だった。
祭りの終った後の衣装などの後片付け、関西興銀の職員200人が総出でしたので長く日程を取らないで片付けたという。
それほど職員たちに統率のとれたものだった。
そうした四天王寺ワッソに対する思いはNGO法人化されて組織が変わっても続いている。本祭には当時の職員、肩書き関係なしに集まってきて裏方に徹して祭を盛り上げている。こんなことは一般にはよく知られていない。
しかし私はこの祭に長いこと関わってきて当時の肩書きのある人も祭には参加して裏方をしておられるので皆顔見知り、久しぶりに会うのでつい皆と挨拶をしている。
そして衣装やだんじりなどが保管されている会社倉庫、ここに行くと李煕健氏のように在日コリアンの1世が生きた歴史がここに詰まっていることを知った。汗と涙とそして一瞬のよろこびが詰まっている。そして4世5世にと繋いだ命の歴史も詰まっていることがどこからか伝わってくる。
この倉庫も次世代に残していく何かが残されている。こんなことは一般の者はわからない。1昨年、倉庫を取材してひしひしと1世の生きた道程の深さと悲しさと語り継ぐ息づかいを認識した。そこには1世、2世、3世、4世、5世の風が静かに吹いているのです。
昨日は夕食の後、昨日の現場の原稿を作った。歴史的文献も読まないといけない。資料が多いのは助かるが読み込みをしないといけないので少し時間がかかった。9時過ぎからし始めてできあがったのが12時、この後、写真10枚を送信して12時半、終るやすぐにパソコンを閉めてフトンの中にもぐりこんだ。コトンと寝てしまった。
編集局は日曜日も出て整理作業しているので土曜日の夜に送稿しなければと原稿を作ったのでこれでやれやれ、今夜は四天王寺ワッソの原稿作成だけである。
私の家のベランダで生まれたヒナ、ヒナの親の縄張りはどうやらマンションの周辺らしい。毎日、ヒナたちを見ている。
朝は必ず向かいの家の屋根に座っている。
夕方も座っていて4時過ぎると親子でどこかにねぐらに消えてしまう。
昨日も4時前に自宅に戻ると向かいの屋根にいた2羽、行動派のヒナは屋根の上の方にいたのに屋根の下にとことこ降りてきて筆者の顔がよく見えるところに座っている。
今朝も同じことをしている。今朝は臆病のヒナのほうだった。
朝、起きてベランダの戸を開けると臆病のヒナが瓦の上に座っている。
そしたらピーと鳴いている。
私に合図しているのか。行動派のヒナに合図をしているのか。
しばらくするとベランダに母鳩とヒナ2羽がとまって餌をもらっている。
飛んでいるのにまだ子ども。親から餌をもらっている。
なんともいえないほほえましい光景だがベランダの前に行ってとりあえずヒナたちを追い返すようにしている。
時計はもう9時、身支度をして谷町4丁目にある難波の津までいかなければならない。12半からパレードが始まる。これから外出の支度です。
夫はベランダに出て鳩の糞の掃除をしています。私は手伝う時間がないのです。
李煕健氏は1950年代に信用組合大阪興銀を大きくして理事長になり関西興銀にした。鶴橋を拠点にして韓国市場の経営者らに日掛け貯金を進めて店の経営にも尽力してきた。もう1つ大阪商銀の信用組合もあって在日韓国人の関西経済基盤の尽力者とも言っても過言ではない。
それが関西興銀は倒産した。巷では日本政府がつぶしたというのが普通だが裏はそんなことではない。もっともっと政治的なものがあった。
李煕健氏は今も高齢だが健在である。
李煕健氏は日本で暮らした差別と蔑視、辛酸を体験したことは次世代に繋いではいけない。次世代に韓日の歴史を正しく理解していく。まず日本人の歴史認識の変革と考えて四天王寺ワッソというイベントの開催に奔走された。関西興銀の全職員を借り出してのイベント開催だった。
祭りの終った後の衣装などの後片付け、関西興銀の職員200人が総出でしたので長く日程を取らないで片付けたという。
それほど職員たちに統率のとれたものだった。
そうした四天王寺ワッソに対する思いはNGO法人化されて組織が変わっても続いている。本祭には当時の職員、肩書き関係なしに集まってきて裏方に徹して祭を盛り上げている。こんなことは一般にはよく知られていない。
しかし私はこの祭に長いこと関わってきて当時の肩書きのある人も祭には参加して裏方をしておられるので皆顔見知り、久しぶりに会うのでつい皆と挨拶をしている。
そして衣装やだんじりなどが保管されている会社倉庫、ここに行くと李煕健氏のように在日コリアンの1世が生きた歴史がここに詰まっていることを知った。汗と涙とそして一瞬のよろこびが詰まっている。そして4世5世にと繋いだ命の歴史も詰まっていることがどこからか伝わってくる。
この倉庫も次世代に残していく何かが残されている。こんなことは一般の者はわからない。1昨年、倉庫を取材してひしひしと1世の生きた道程の深さと悲しさと語り継ぐ息づかいを認識した。そこには1世、2世、3世、4世、5世の風が静かに吹いているのです。
昨日は夕食の後、昨日の現場の原稿を作った。歴史的文献も読まないといけない。資料が多いのは助かるが読み込みをしないといけないので少し時間がかかった。9時過ぎからし始めてできあがったのが12時、この後、写真10枚を送信して12時半、終るやすぐにパソコンを閉めてフトンの中にもぐりこんだ。コトンと寝てしまった。
編集局は日曜日も出て整理作業しているので土曜日の夜に送稿しなければと原稿を作ったのでこれでやれやれ、今夜は四天王寺ワッソの原稿作成だけである。
私の家のベランダで生まれたヒナ、ヒナの親の縄張りはどうやらマンションの周辺らしい。毎日、ヒナたちを見ている。
朝は必ず向かいの家の屋根に座っている。
夕方も座っていて4時過ぎると親子でどこかにねぐらに消えてしまう。
昨日も4時前に自宅に戻ると向かいの屋根にいた2羽、行動派のヒナは屋根の上の方にいたのに屋根の下にとことこ降りてきて筆者の顔がよく見えるところに座っている。
今朝も同じことをしている。今朝は臆病のヒナのほうだった。
朝、起きてベランダの戸を開けると臆病のヒナが瓦の上に座っている。
そしたらピーと鳴いている。
私に合図しているのか。行動派のヒナに合図をしているのか。
しばらくするとベランダに母鳩とヒナ2羽がとまって餌をもらっている。
飛んでいるのにまだ子ども。親から餌をもらっている。
なんともいえないほほえましい光景だがベランダの前に行ってとりあえずヒナたちを追い返すようにしている。
時計はもう9時、身支度をして谷町4丁目にある難波の津までいかなければならない。12半からパレードが始まる。これから外出の支度です。
夫はベランダに出て鳩の糞の掃除をしています。私は手伝う時間がないのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます