鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

金曜日からずっと寒い。

2008-04-01 09:12:05 | 直言!
なんとかジャケットの下に厚手のセーターを着ていくが外にでると寒い。
しかし今日から4月1日、早い。この間新年の挨拶をしたと思ったらもう春らんまんの4月になった。
花見がこれから盛んになるだろう。
それが私はそんなに花見での食事は好きではない。
食べた気がしない。
桜を見に行ってしばらくめでてそして近くのどこかのレストランで食事をするほうがいい。年をとったのかな。
いや。あんまり好きでない。
かつて結婚して15年間、佐紀町というところに住んで平城宮跡とは目と鼻の先に住んでいたが桜はよく見に行ったがそこで弁当をひろげて食べることはなかった。たいてい近くのレストランに行った。
お弁当を作る材料費用を考えると食堂で食べる値段とも変らないので------。
仕事の中では何度も何度も花見の席にご相伴した。若いときはそれも楽しかったが今はそうあんまり食指がうごかないので花見の中の現場はほとんどしなくなった。どうしてもときは出かけるが花見だけで記事にはならない。
何か特別なことがないかぎりいかない。
近年では3・4年前、生野区であった花見に2回駆けつけている。

若いときはなんかあちらこちらと行っているのにどこにいったのか忘れてしまった。京都の円山公園にはよく行ったのでここは記憶にある。大阪は大阪城公園にもよく行った。みんなそれぞれの弁当もあればそこで焼肉をするところもあった。

そういえば5月18日は大阪城公園の太陽の広場で午前11時から「韓日親善交流マダン(広場)」がある。
主催は民団大阪本部、協賛は近畿産業信用組合、後援は駐大阪大韓民国総領事館、マダンの目的は在日韓国人と日本人の親善交流と地方参政権獲得そして在日韓国人の地域の共生社会をめざしてです。
時間のある人は1度、顔をだして韓日親善交流に触れて見て下さい。
催しのプログラムはまだ私の手元に届いていませんが韓国の歌手や韓国の伝統文化芸能も披露されると私は考えていますが私が考えている以上に素晴らしいプログラムが容易されていることでしよう。
友人お誘いの上会場におこし下さい。

当日の人数の動員数予定は4000人、すごい催しになると思います。
この催しは大韓民国が樹立して60年になります。日本植民地支配から解放されて分断国家のまま60年もの国家繁栄に皆努力してきました。その記念の年のイベントです。
韓国の山河は韓国の動乱(6・25動乱)で山々の木々はなくなり荒れた国になりました。1965年、日本と韓国は国交正常化した。有償・無償8億ドルを日本から引っ張り出して朴正煕大統領はこの支援金や補償金を無駄に使わないで国の繁栄のために使った。
それが韓国の最初の高速道路、京釜線、釜山とソウルを結んで物流の運送の活性化に図った。そしてソウルから慶州までセマウル号を走らせる鉄道も作って観光客誘致に図った。
この間、在日韓国人の企業人も韓国に行き事業を展開した。
その成功者がロッテ百貨店である。失敗したのは大阪で財閥だった坂本紡績、歌手の小畑実は婚姻関係にあった。韓国にもどったが事業は発展しなかった。
ホテル経営にも乗り出した。在日韓国人が経営しているホテル、ソウル市内にあるのがロッテホテル、ソウルロイヤルホテル、そして私が宿泊するニュー国際ホテル。もっと他にもあるが民団関係者がよく利用するホテルはソウルロイヤルホテル、日本人観光客が多いのがロッテホテルだが韓国に行くと多数のホテルがある。ここまで発展したのは皆さんが汗をかき涙も流して築いてきたものである。
在日韓国人1世も故郷に学校はじめいろんな施設を作ってきた。道路も作った。そのために1世は故郷に錦を飾るといっては故郷に働いた財貨を運んだ。
この姿を多くの2世が見てきた。そして自分たちの時代は日本社会との共生である。地域の中で生きていくことを選んだ。
1世たちは地域の中に入ろうと思っても習慣が違い考え方も違い双方相容れないものがあった。しかし多くの2世は言語が日本語である。1部をのぞいて日本の学校に進んだ。
ここで民族気質を培ったものとそうでないものという生活空間が生まれたが2世は地域でいくことに主体にして生きてきた。3世、4世にこの気持を繋いでいく。しかし自分のルーツのこと忘れていない。
ソウルの南大門が焼失したときはいち早く民団関係者が寄付金を募りだした。
1世たちはこうして韓国の発展に寄与してきた。
動乱で荒れ果てた山々を朴正煕大統領は植樹の日を設けた。その日は在日韓国人たちも参加して植樹に寄与してきた。
青々と茂った山々の木々に1世の言葉を思い出す。
「禿山だった韓国の山に苗木を日本から運んで山々に植えてきた。当時はまだ苗木などの検疫が厳しくなかったので苗木を運んだ」
慶州の桜並木、済州道の桜、そして慶尚南道から全羅南道に行く道の両側にある桜並木は圧巻の景色である。この桜1500本も在日韓国人の人たちの寄附で植樹された。
大韓民国樹立60年、さまざまな思いが走る。

私は長い間、民族団体に関わらないで暮らしてきた。血がそうさせたのか。天国にいる先人が導いてくれたのか。日本国籍に帰化しょうと思っていた矢先に韓国語にこだわりだした。41歳から「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」これで1年間悩んだ。私なりに出した結論が韓国語を習うことで何か答えが見つけられるかもしれない。韓国語と正面に向き合ってみよう。
長い間実家の父親に隠しての語学教室の通いだった。
それから道が違う形で開き始めた。
韓国語教師の紹介で在日韓国人の新聞社に転職した。ここから私の人生は転換した。3・4年は古巣の地方紙または元の雑誌記者に戻ろうかと心は揺れた。しかし在日コリアンの中に入って記事を書くなかで「日本人のふりをして日本の記事をかきたくない」思いが根底にあり在日コリアンの中で記事を書いていくやりがい、いきがいが少しずつ私の体に入り始めてようやく1人でも多く喜んでもらえる記事を書いていこうと気持が固まったのは4年目あたりからだった。
父親の民族教育から逃げていたのにここでずいぶん私の祖父母・父母が生まれた国のことを学んだ。
私の父親が民族団体に所属しなかった歴史も少しずつ分かった。

父親が死ぬ間際に言った言葉、私に言った。
「社会主義では飯は食えない」
これはなんの意味かわからなかったが父親の思いはやはり「南北統一」だったのだろう。政治の足かせがなくなったら自分の故郷に行くと腹積もりをしていたのだろう。父親は日本政府の犠牲者だった。南北分断は日本の戦前、軍儒工場で働いた父親の歴史が確固たる形にして残った。このことが父親の中で悶々と葛藤し韓国訪韓をしなかった。真面目な父親はそのときそのときの時勢にあわして要領よく生きられなかった。日本の政治に翻弄された犠牲者だった。南北分断は政治の足かせで父親の訪韓を阻んだ。
なんともいいきれない無念の気持で父親はこの世を去った。
故郷の山河は「覚えている」と私に話した。
この言葉を思い出すとどんなに故郷に帰りたかっただろうか。
そして故郷に帰るのに本家の長男が家を守らなかったことも親戚に詫びていたのだろうか。「俺が韓国に行くとなると風呂敷包みのお金ではすまない」といつも言っては叔父が父親に韓国に行くことを誘うのもためらった。
頑固だった父親の思いが今ようやく分かるように気がする。

大韓民国樹立60周年、在日コリアンにとっても汗と血と涙の生きた証である。
帰化同胞の参加も大いに募っている。開催主催者はルーツを忘れてはならない思いがある。
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