2006年3月10日、民団大阪本部に当時韓国のハンナラ党首だった朴槿惠さんが訪問した。関西の近畿2府4県の在日韓国人が歓迎、そのときの模様を撮影した。すごいSPの人数と韓日問わず報道関係者にとりこまれ写真を取る方は一瞬、一瞬の勝負となって至難の技だった。肝心ないい顔をしておられるところは全部ぶれた。それでも記念にと思って残して置いた。
そのあと1度、バソコンの本体を買い換えている。データーが飛んだものもあるがこれはめったに撮れないと考えて大事に保存していた。よかった。昨年の手帳を見てみると3月10日になっていた。玄関でこられるところを待っている時また肌寒かった。
知的なイメージと苦難の歴史を歩んできた人間性がでていた。小柄だが愛嬌のある顔をしておられる
同じ女性として1度は話してみたい魅力のある人だった。
残念ながら私は韓国語ができないので生涯話をすることはないだろう。
しかし芯の強さを感じた。
韓国は動乱のあと打ちひしがれた国民たちを奮起させて国家建設に向けた父親の朴正煕大統領のことはみんな記憶にあるだろう。分断国家であり冷戦構造だった世界、北朝鮮との対峙は至難の技だった。
その中での国家建設、さらに多くの人たちが国家建設に関わった。また冷戦構造は政治的に分断した悲劇は数々あった。
この中から歩んできた韓国の歴史は記憶にのこさなければならない。
日本植民地支配から解放されたものの分断国家という民族の悲劇をせおうことになった。一般の日本人は想像もつかないだろうが在日同胞の間でも熾烈な戦いの中で生きてきた。
まして韓国は国土が分断されて38度線で軍事境界線が引かれた。
このときの国土は1つ間違えば北に取り込まれていく不安の中にあった。
人々の言論は統制された。この苦難の道を知っている朴槿惠さんの人間性は芯の強い父親の同じように国民と国家のために一途に進んでいく力強さを見るようだった。在日韓国人はどの政党とも関与できないが私は1度話してみたい魅力的な女性だった。
なんどもいっぱいになるパソコン、写真を削除しょうと思ったがこの写真はめったに撮れないと考えて写真は大事に保存していた。どこかでいい役割を果たすことになればこれほど嬉しいことはない。
さてもう12時が過ぎた。
韓国取材日記を書き込んで写真の作業しているともうこんな時間、体を安めないといけない。休息をしよう。
そのあと1度、バソコンの本体を買い換えている。データーが飛んだものもあるがこれはめったに撮れないと考えて大事に保存していた。よかった。昨年の手帳を見てみると3月10日になっていた。玄関でこられるところを待っている時また肌寒かった。
知的なイメージと苦難の歴史を歩んできた人間性がでていた。小柄だが愛嬌のある顔をしておられる
同じ女性として1度は話してみたい魅力のある人だった。
残念ながら私は韓国語ができないので生涯話をすることはないだろう。
しかし芯の強さを感じた。
韓国は動乱のあと打ちひしがれた国民たちを奮起させて国家建設に向けた父親の朴正煕大統領のことはみんな記憶にあるだろう。分断国家であり冷戦構造だった世界、北朝鮮との対峙は至難の技だった。
その中での国家建設、さらに多くの人たちが国家建設に関わった。また冷戦構造は政治的に分断した悲劇は数々あった。
この中から歩んできた韓国の歴史は記憶にのこさなければならない。
日本植民地支配から解放されたものの分断国家という民族の悲劇をせおうことになった。一般の日本人は想像もつかないだろうが在日同胞の間でも熾烈な戦いの中で生きてきた。
まして韓国は国土が分断されて38度線で軍事境界線が引かれた。
このときの国土は1つ間違えば北に取り込まれていく不安の中にあった。
人々の言論は統制された。この苦難の道を知っている朴槿惠さんの人間性は芯の強い父親の同じように国民と国家のために一途に進んでいく力強さを見るようだった。在日韓国人はどの政党とも関与できないが私は1度話してみたい魅力的な女性だった。
なんどもいっぱいになるパソコン、写真を削除しょうと思ったがこの写真はめったに撮れないと考えて写真は大事に保存していた。どこかでいい役割を果たすことになればこれほど嬉しいことはない。
さてもう12時が過ぎた。
韓国取材日記を書き込んで写真の作業しているともうこんな時間、体を安めないといけない。休息をしよう。
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