マンションの部屋から見える高円山の景色に夏の到来を感じている。
深い緑の樹木、一時の黄緑色の季節は早々と過ぎていった。
早い。季節の移り変わりが早い。
もう2009年も5ヶ月過ぎてしまった。
年を取ると1年の経つのが早すぎる。
どこかでストップしてほしいが時間は刻々と過ぎていく。
今日は11時30分ごろに自宅を出た。バス乗り場に行くと遠くに市内循環が来ていた。バスに乗って近鉄奈良駅に出た。
郵便局に寄ってジャーナリスト・ネットから少しを引き出して持っているネットの会計と足してネットの関係者に振り込んだ。
引き出しをするのはいつもの作業だが、郵便局設置の振込み用紙にいろいろと書かないといけない。この作業が初めてで汗がタラタラ出てくる。慣れないことでまた汗をかいているが1つの所用を済ませたのでほっとした。
そして銀行に行って電気・ガスなどの自動支払機の通帳がいっぱいになった。
銀行の窓口に行って新しいのを作って行きつけの喫茶店に行った。
新聞2紙を久しぶりにゆっくりと読んだ。現場の仕事に行かないので本当にゆっくりと読んだ。
1時半に出た。
書店で本を買いスーパーに寄って昨日買い忘れたものをいくつか買ってまた食材も買って出てきてバス乗り場に行く途中に通る銀行の前で思い出した。
まだ2時過ぎである。
税金の支払があることを思い出してまた銀行に寄って用事を済ませた。
バス乗り場に行くとちょうど、中循環バスがきたので乗った。
自宅に帰ると2時半、買物の荷解きをして冷蔵庫に入れてシャワーを浴びた。
パソコンを開けるとゲラのチェックのメールが入っている。
急いでゲラの校正を済ませてまた編集局に送信した。
こんなことで外出していても決して長居ができない。
とりあえず3時までに戻ってきてよかったと安堵した。
そして久しぶりにゆっくりとインターネットで韓国の新聞をゆっくりと読んだ。動画もゆっくりと見た。
盧武鉉前大統領の告別式の様子を見た。
韓国の葬儀はどうされているのか見たくて見た。
在日韓国人とまた韓国の葬儀は違う。
盧武鉉前大統領の葬儀通して、いろんなことを学んだ。
在日韓国人の1世たちを見送る時、近年はほとんど日本の葬儀社に依頼して行っている。ほとんど日本式に行っている。
しかしどうしても韓国の風習を取り入れたものがある。
柩に被せる布である。
故人の本貫を赤い布に白い文字で書き入れる。
例えば私の父親の柩には「晋陽鄭氏共載公派・鄭慶和柩」と書き入れた。これは私が父親に生前、聞いていたので正しく書くことが出来たが母親の時は「派」のところを聞いていなかった。しまったと思った。
それで母親の弟家族のいる韓国仁川に電話したが不在だった。
父親の弟、叔父は「金海金派(キメキンガ)か」と言うので私は「金海金派とは違う。父親は竜宮の宮が付くのでそれなりの由緒ある家と結婚してしばらくしたときに私に父親は教えてくれた」と話した。「叔父は分かった。それでいい」と言って釜山の妹の電話をすることは止めた。それで柩の布には「金宮金派・金順任柩」と書き入れた。今は後悔している。気難しい父親で煙たいでも母親の本貫をもっときっちり聞いておくべきだったと反省している。
そしてもう1つ知ったことは柩を霊柩車に乗せてその後、遺族は霊柩車の前に供物を並べてする拝礼、大礼(クンジョル)これが「遺尊祭」、韓国語で「マスリ」という。儀式には「出棺の際、家を離れる前に行う儀式」と説明されていた。
これでやっと分かった。今までなぜこんなことを行うのかと思っていた。近年の日本の葬儀屋さんも在日コリアンの風習を理解しておられるので最低限の儀式として取り入れて告別式を執り行っている。これも韓国の風習だったと分かった。1世から2世に伝えたものである。
在日コリアンの葬儀では行わないが韓国のドラマででてくる野辺の送り、旗がたくさんでてくる。これは「輓章(マンジャン)」と言って死者を追悼するのぼり旗と分かった。
なるほどこれでやっとわかった。
在日コリアンは日本の葬儀屋さんが設えたもので通夜を迎えて告別式をするがもう1つ日本の葬儀屋さんと違うことをしている。
韓国の祭祀と同じ膳をこしらえる。生きている人と同じように3度3度、膳の供物を取り替えていく。これはまた大変なものだった。
父親の時は叔父たちの声もあるのでこれはきっちりとした。これはまた大変だった。父親のときは自宅で葬儀をしたのできっちり韓国式も取り入れたのでもう葬儀が終わったとき私はクタクタに疲れた。体調を崩した。
母親の時はそんなエネルギーもなくなっていた。そして葬儀はメモリアルホールでしたので父親の時よりも少し簡素にしたので私は体調を崩さないで葬儀を済ませることができた。
そんな親の時の葬儀と重ねて盧武鉉前大統領の葬儀の様子を見ていた。
祖父はすべて韓国式で行った。それはそれは大変だったと父親は振り返って話していた。1960年の秋、まだ在日コリアンではこうした葬儀が行われていたのだろう。祖母が亡くなったときは1983年、時代も変わって在日コリアンの葬儀はほとんど日本の葬儀屋さんに頼んでしていた。
祖母のときは父親もいたし父親の弟、叔父も叔母もたくさん生存していたので私は子どもの立場で何もすることはない。ただ親戚の食事の手伝いをしていただけだった。父親が亡くなったときはまだ叔父たちが元気だったので教えてもらいながらの葬儀になったが母親の時は叔父たちももう高齢になっていたので動くのは若い者になった。
親を見送っていろいろと学ぶことが多かった。
1世たちが日本で亡くなった。なんのための人生だっただろうかと考えさせられることも多かった。こんなことをまた私が知っている限り弟たちの子どもに伝えていかなければならないと考えている。
日本国籍になってもルーツは決して忘れてはならない。そのことを弟の子どもたちに伝えていかないといけない。
私の父親は娘と同じとは言わないが孫にも善悪には厳しかった。
民族のアイデンテイテイーも教えた。それなりの自分の出自を持って生きている。これからまた時代は変わっていくのでどうなるか分からないが自分が何人であることは忘れてはならない。
忘れるとちぐはぐな人格になってしまう。日本人のふりをしていても確実に親から受け継いだDNAが存在している。育った風土や文化は日本だが持って生まれた血筋はけっして消えることはない。それでもルーツを隠して日本人になりきろうとするので陳腐な人格になっている。そんな人を周りで多く見てきたので陳腐な人格になってほしくないので出自ははっきりと心に刻んで生きてもらいたいとまた韓国の葬儀を見ていてそう思った。
5時過ぎた。夕食の支度をしないといけない。
深い緑の樹木、一時の黄緑色の季節は早々と過ぎていった。
早い。季節の移り変わりが早い。
もう2009年も5ヶ月過ぎてしまった。
年を取ると1年の経つのが早すぎる。
どこかでストップしてほしいが時間は刻々と過ぎていく。
今日は11時30分ごろに自宅を出た。バス乗り場に行くと遠くに市内循環が来ていた。バスに乗って近鉄奈良駅に出た。
郵便局に寄ってジャーナリスト・ネットから少しを引き出して持っているネットの会計と足してネットの関係者に振り込んだ。
引き出しをするのはいつもの作業だが、郵便局設置の振込み用紙にいろいろと書かないといけない。この作業が初めてで汗がタラタラ出てくる。慣れないことでまた汗をかいているが1つの所用を済ませたのでほっとした。
そして銀行に行って電気・ガスなどの自動支払機の通帳がいっぱいになった。
銀行の窓口に行って新しいのを作って行きつけの喫茶店に行った。
新聞2紙を久しぶりにゆっくりと読んだ。現場の仕事に行かないので本当にゆっくりと読んだ。
1時半に出た。
書店で本を買いスーパーに寄って昨日買い忘れたものをいくつか買ってまた食材も買って出てきてバス乗り場に行く途中に通る銀行の前で思い出した。
まだ2時過ぎである。
税金の支払があることを思い出してまた銀行に寄って用事を済ませた。
バス乗り場に行くとちょうど、中循環バスがきたので乗った。
自宅に帰ると2時半、買物の荷解きをして冷蔵庫に入れてシャワーを浴びた。
パソコンを開けるとゲラのチェックのメールが入っている。
急いでゲラの校正を済ませてまた編集局に送信した。
こんなことで外出していても決して長居ができない。
とりあえず3時までに戻ってきてよかったと安堵した。
そして久しぶりにゆっくりとインターネットで韓国の新聞をゆっくりと読んだ。動画もゆっくりと見た。
盧武鉉前大統領の告別式の様子を見た。
韓国の葬儀はどうされているのか見たくて見た。
在日韓国人とまた韓国の葬儀は違う。
盧武鉉前大統領の葬儀通して、いろんなことを学んだ。
在日韓国人の1世たちを見送る時、近年はほとんど日本の葬儀社に依頼して行っている。ほとんど日本式に行っている。
しかしどうしても韓国の風習を取り入れたものがある。
柩に被せる布である。
故人の本貫を赤い布に白い文字で書き入れる。
例えば私の父親の柩には「晋陽鄭氏共載公派・鄭慶和柩」と書き入れた。これは私が父親に生前、聞いていたので正しく書くことが出来たが母親の時は「派」のところを聞いていなかった。しまったと思った。
それで母親の弟家族のいる韓国仁川に電話したが不在だった。
父親の弟、叔父は「金海金派(キメキンガ)か」と言うので私は「金海金派とは違う。父親は竜宮の宮が付くのでそれなりの由緒ある家と結婚してしばらくしたときに私に父親は教えてくれた」と話した。「叔父は分かった。それでいい」と言って釜山の妹の電話をすることは止めた。それで柩の布には「金宮金派・金順任柩」と書き入れた。今は後悔している。気難しい父親で煙たいでも母親の本貫をもっときっちり聞いておくべきだったと反省している。
そしてもう1つ知ったことは柩を霊柩車に乗せてその後、遺族は霊柩車の前に供物を並べてする拝礼、大礼(クンジョル)これが「遺尊祭」、韓国語で「マスリ」という。儀式には「出棺の際、家を離れる前に行う儀式」と説明されていた。
これでやっと分かった。今までなぜこんなことを行うのかと思っていた。近年の日本の葬儀屋さんも在日コリアンの風習を理解しておられるので最低限の儀式として取り入れて告別式を執り行っている。これも韓国の風習だったと分かった。1世から2世に伝えたものである。
在日コリアンの葬儀では行わないが韓国のドラマででてくる野辺の送り、旗がたくさんでてくる。これは「輓章(マンジャン)」と言って死者を追悼するのぼり旗と分かった。
なるほどこれでやっとわかった。
在日コリアンは日本の葬儀屋さんが設えたもので通夜を迎えて告別式をするがもう1つ日本の葬儀屋さんと違うことをしている。
韓国の祭祀と同じ膳をこしらえる。生きている人と同じように3度3度、膳の供物を取り替えていく。これはまた大変なものだった。
父親の時は叔父たちの声もあるのでこれはきっちりとした。これはまた大変だった。父親のときは自宅で葬儀をしたのできっちり韓国式も取り入れたのでもう葬儀が終わったとき私はクタクタに疲れた。体調を崩した。
母親の時はそんなエネルギーもなくなっていた。そして葬儀はメモリアルホールでしたので父親の時よりも少し簡素にしたので私は体調を崩さないで葬儀を済ませることができた。
そんな親の時の葬儀と重ねて盧武鉉前大統領の葬儀の様子を見ていた。
祖父はすべて韓国式で行った。それはそれは大変だったと父親は振り返って話していた。1960年の秋、まだ在日コリアンではこうした葬儀が行われていたのだろう。祖母が亡くなったときは1983年、時代も変わって在日コリアンの葬儀はほとんど日本の葬儀屋さんに頼んでしていた。
祖母のときは父親もいたし父親の弟、叔父も叔母もたくさん生存していたので私は子どもの立場で何もすることはない。ただ親戚の食事の手伝いをしていただけだった。父親が亡くなったときはまだ叔父たちが元気だったので教えてもらいながらの葬儀になったが母親の時は叔父たちももう高齢になっていたので動くのは若い者になった。
親を見送っていろいろと学ぶことが多かった。
1世たちが日本で亡くなった。なんのための人生だっただろうかと考えさせられることも多かった。こんなことをまた私が知っている限り弟たちの子どもに伝えていかなければならないと考えている。
日本国籍になってもルーツは決して忘れてはならない。そのことを弟の子どもたちに伝えていかないといけない。
私の父親は娘と同じとは言わないが孫にも善悪には厳しかった。
民族のアイデンテイテイーも教えた。それなりの自分の出自を持って生きている。これからまた時代は変わっていくのでどうなるか分からないが自分が何人であることは忘れてはならない。
忘れるとちぐはぐな人格になってしまう。日本人のふりをしていても確実に親から受け継いだDNAが存在している。育った風土や文化は日本だが持って生まれた血筋はけっして消えることはない。それでもルーツを隠して日本人になりきろうとするので陳腐な人格になっている。そんな人を周りで多く見てきたので陳腐な人格になってほしくないので出自ははっきりと心に刻んで生きてもらいたいとまた韓国の葬儀を見ていてそう思った。
5時過ぎた。夕食の支度をしないといけない。
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