6時25分ごろ、洗濯を干しにベランダにでると部屋の電気をつけなくても外で洗濯が干せるようになった。
少しは日が長くなっているようである。
外は晴れている。今日もいいお天気になるらしいが部屋の中は寒い。
寒いというので思い出した。
2月の電気代の振込が入っていた。
先月、エアコンの暖房を入れていたので電気代の高さに驚いた。
それでエアコンは出かける前の化粧をするときだけにした。
あとは電気ストーブにした。
そしたら約5000円安くなっていた。
それでも新聞を取りに行って電気使用量の金額が入っていたのでその金額を見て驚いている。
それで私は「エアコン消して5000円ほど安くなった」と言った。
それでも冬の電気使用量の高さをわかったようだ。
夏の高いのは冷房で認識しているが冬は気がつかなかったらしい。
しかし暖房いれないで風邪を引くと医者代がもっと高いと考えてこの頃は暖房は入れるようにしているがさすがエアコンの高さに驚きストーブにした。
エアコン入れても寒い時はストーブをつけている。
それでストーブだけにした。
昨日は拉致被害者の田口八重子さんのニュースを見て11時前に寝た。
一昨日は深夜まで仕事して昨日も1日、パソコンの前にいて疲れているのだろうか。
眠い。睡魔が押し寄せてくる。
寝ないといけないかな。
今日は拭き掃除をしてすることはあるがあとからしよう。
眠い。疲れているのだろうか。
拉致被害者のニユースを見ていると北朝鮮がますますわからなくなってくる。
謎が多い。
生前の父親はよく言っていた。
日本の中にある北朝鮮支持者の活動や事業、金融機関や学校にしても何を教えているかわからない。
「金融機関の早朝学習は毎日、毎日、金日成を崇拝する言葉を羅列している。
ここは日本や。日本で住んでいる在日朝鮮人は日本で暮らす生き方を探さないとあかんのに何を考えてそんなことしているのか」と、私が結婚しても子どもを連れて実家に帰って夕食を一緒にしていると父親はそんな話をしていた。
何年か経ってから、いくばくもない余命のとき私は父親の体をふいていた。
そしたら呟くように言った。
「社会主義では飯、食われへんからな」
私は何故と聞きたかったが後、少ししか生きられない父親に何もいえなかった。
この後、父親は心の中で何を考えていたのだろうかと、今も聞いておいたほうがよかったかと後悔している。
父親はいつぞや、突然の用事で桜井市にあるお寺に行くことになった。先祖の墓守をしてもらっているので弟の運転で車で行った。
そして近くに父親の下の弟がいるので来たついで立寄ったら入った玄関のところに北朝鮮を指示する写真などが立ててあってもう父親は話しもそこそこにして出てきたという。
このことも娘の私に話してくれたことがあった。1980年代の半ばのことである。
「びっくりした。あいつがあそこまでのめりこんでいると思ってなかった」と--。
しかし年を重ねて何年か後に病死するが晩年は父親に北朝鮮の体制の悪さを話していたと最近、弟が話してくれた。
私は23歳で結婚して実家を出ている。
祭祀などは夫の家のほうに行くので親戚と会うのは冠婚葬祭程度になった。
しかし父親の家は父親が長男だったので親戚は近くまで来ると立寄った。桜井市にある墓に墓参りをしたとき親戚は必ず立寄って行った。
そんなことで私の知らないことがたくさんあった。
弟も年を重ねてきてそれなりの人生がわかってきたのか生前、父親が話していたことを話してくれるようになった。
日本に住んでいる在日コリアンは決して国に帰ることはない。
今はもう5世が誕生している。2世のほとんどは日本で朽ちてく。
1世たちも1970年代はまだ国に帰るかもしれないという気持が残っていた。
だから私の祖父が亡くなったのは1960年の6月、まだ日韓国交正常化していなかったがまだ国に帰る。そして自分たちは国に帰らなくても祖父の遺骨は故郷にもって行こうと考えていたのか墓地を買って祖父を埋葬したが墓石までまだ作っていなかった。
しかし1980年に入って3年後に祖母が亡くなった。
この時はもう国に帰らないと皆が思っていた。
父親は祖父の遺骨を国に持って行きたい気持はあったがなぜか韓国行きに足が向かなかった。まだ軍事政権の時代で父親は戦前の警察を中心とした協和会の役員をしていたので韓国に行くのに足を遠のかせた。
祖父が父親に「分家があまりにも金持ちになったのでもうお前は行くな」と言葉を残した。
しかしこれを書きながら思い出した。
分家は日本との国交が正常化すると訪韓を繰り返し駐大阪韓国総領事館の建物の建立にも多額の寄付金をしている。民団大阪本部会館施設や八尾支部会館など建物建立に多額な寄付をしてきた。
祖父が生きていたころはまだまだ政情が不安定で南北分断国家は父親の戦前の活動は分家筋にマイナスになると考えて祖父は「分家には行くな」と言ったようにも思うと今頃気がついた。
叔父たちは父親に内緒にして韓国に何度も行っている。(国交正常化したころ、叔父たちは父親に内緒で分家、祖父の弟にパスポートを作るときに身元保証人になってもらって韓国に何度も行っているということも最近、叔父から聞くことになった)韓国に行こうと私がいうと「俺が韓国に行ったら風呂敷包みのお金ですまへんのやで」と言った。
本家の長男として今まで故郷に何もしてこなかったので訪韓すれば韓国に住んでいる親戚筋にどれほどのことをしないといれないのか。父親なり韓国に行かなくても知っていた。
だから叔父たちが何度訪韓しても父親の名前ばかり出された。
分家筋が墓地など整理してくれたらしい。叔父が話していた。そしてその建立の名前は父親の名前にしていた。
これも訪韓していた叔父が父親に話した。
財閥になった分家筋だが韓国では「族譜」というのが重要視されて父親が直系筋の何世の第1子となるのでその血筋はなにがなんでも大事にされた。
父親の時代はそうした中で育ってきた。
私はそんなことはどうでもいいと思っていた。
民族教育を受けた従兄弟たちは我が家の血筋に会うと私に自慢していた。
そんな話を聞いていて私は違和感があったぐらいだった。
在日韓国人の中で新聞記者をするようになっても違和感がずっと会った。
ある日のことだった。
総領事を囲んでの記者懇親会があった。
たまたま私は総領事の前に座らされた。
向かい同士になったときに総領事は「両班」の話をした。
私は「両班」と言う言葉も違和感があって嫌いだった。
それで総領事につい意見をした。
「日本に住んでいると両班も何も関係がありません。在日韓国人にはそんなもの必要がありません。日本で生きて行く生活が大切です」と言った。
そしたら総領事は韓国語で静かに話した。
「チョンさん。そんなこと言ってはいけません。日本に住んでいても先祖の土地、出身地を大事にしないといけません。ましてチョンさんの家は韓国でも由緒ある家です。日本にいても自分の親の本貫を大切にして生きて下さい。これは大切なことです」と話された。
総領事がまさか我が家の先祖を知っているとは思っていなかった。
それには驚いた。
その後、しばらくして分家筋の長男と親しくしていた韓国政府派遣教師は私に分家筋の関係を話した。そして先祖を大切にするようにと言った。
「チョンさんの家の韓国語の系図など見せてもらって訳したことがあります。そこにはチョンさんのこともありました。それにチヨンさんの家では韓国では稀にみる家柄ですから大事にして下さい」と話された。
それから私は自分の親の故郷を大事にするようになって機会があれば何かで残していかないといけないと思っていたので書く機会があればこうして記録に残している。
「帰化」をしょうと思った30代の後半、それがどうなったのか民族を考える機会に処遇して自分のことを考えることになった。これも亡くなった祖父母が私の体を運んでくれたものと思っている。
父親は5歳で日本にきたが故郷の山、川の景色を覚えていた。その景色のあるところが自分の故郷であると思っていた。慶尚南道晋陽郡智水面が自分の故郷である。北朝鮮は自分の故郷の全体で国に帰るとしたに現在の晋州市に帰るものと思っていただろう。
弟ができて父親は日本で骨を埋める覚悟をして本名の表札を通名に変えた。
今から考えると日韓国交正常化のすぐ後だったと思う。
南北が分断したままの韓日国交正常にもう自分は日本社会で生きて行くと覚悟を決めたのたでろうか。戦後、南北分断国家になり在日の組織が2つになった時から生涯、民族・政治活動しないで日本の会社でサラリーマンを通した。
父親は韓国に帰らない。日本で朽ちていくと覚悟をしたのだろう。
それで父親はいつも「政治運動なんかしたらあかん。日本で暮らす経済構築をしないとあかん」と子どもたちにたえず言い聞かせていた。
だから父親は生涯、中立を通した。
9人兄弟という父親はその中で中立を通すのは大変だっただろう。
それを生涯貫き通した。
その背中を見て私は育っている。
だから北朝鮮という謎だらけに日本はどうすれば拉致被害者が全部とりもどせるのか考えてしまう。素人の私は何も考えは浮かんでこないがせめてニュースは見ておこうとニュースを見ていた。
こんな時いつも父親の言葉の数々を思い出す。
少しは日が長くなっているようである。
外は晴れている。今日もいいお天気になるらしいが部屋の中は寒い。
寒いというので思い出した。
2月の電気代の振込が入っていた。
先月、エアコンの暖房を入れていたので電気代の高さに驚いた。
それでエアコンは出かける前の化粧をするときだけにした。
あとは電気ストーブにした。
そしたら約5000円安くなっていた。
それでも新聞を取りに行って電気使用量の金額が入っていたのでその金額を見て驚いている。
それで私は「エアコン消して5000円ほど安くなった」と言った。
それでも冬の電気使用量の高さをわかったようだ。
夏の高いのは冷房で認識しているが冬は気がつかなかったらしい。
しかし暖房いれないで風邪を引くと医者代がもっと高いと考えてこの頃は暖房は入れるようにしているがさすがエアコンの高さに驚きストーブにした。
エアコン入れても寒い時はストーブをつけている。
それでストーブだけにした。
昨日は拉致被害者の田口八重子さんのニュースを見て11時前に寝た。
一昨日は深夜まで仕事して昨日も1日、パソコンの前にいて疲れているのだろうか。
眠い。睡魔が押し寄せてくる。
寝ないといけないかな。
今日は拭き掃除をしてすることはあるがあとからしよう。
眠い。疲れているのだろうか。
拉致被害者のニユースを見ていると北朝鮮がますますわからなくなってくる。
謎が多い。
生前の父親はよく言っていた。
日本の中にある北朝鮮支持者の活動や事業、金融機関や学校にしても何を教えているかわからない。
「金融機関の早朝学習は毎日、毎日、金日成を崇拝する言葉を羅列している。
ここは日本や。日本で住んでいる在日朝鮮人は日本で暮らす生き方を探さないとあかんのに何を考えてそんなことしているのか」と、私が結婚しても子どもを連れて実家に帰って夕食を一緒にしていると父親はそんな話をしていた。
何年か経ってから、いくばくもない余命のとき私は父親の体をふいていた。
そしたら呟くように言った。
「社会主義では飯、食われへんからな」
私は何故と聞きたかったが後、少ししか生きられない父親に何もいえなかった。
この後、父親は心の中で何を考えていたのだろうかと、今も聞いておいたほうがよかったかと後悔している。
父親はいつぞや、突然の用事で桜井市にあるお寺に行くことになった。先祖の墓守をしてもらっているので弟の運転で車で行った。
そして近くに父親の下の弟がいるので来たついで立寄ったら入った玄関のところに北朝鮮を指示する写真などが立ててあってもう父親は話しもそこそこにして出てきたという。
このことも娘の私に話してくれたことがあった。1980年代の半ばのことである。
「びっくりした。あいつがあそこまでのめりこんでいると思ってなかった」と--。
しかし年を重ねて何年か後に病死するが晩年は父親に北朝鮮の体制の悪さを話していたと最近、弟が話してくれた。
私は23歳で結婚して実家を出ている。
祭祀などは夫の家のほうに行くので親戚と会うのは冠婚葬祭程度になった。
しかし父親の家は父親が長男だったので親戚は近くまで来ると立寄った。桜井市にある墓に墓参りをしたとき親戚は必ず立寄って行った。
そんなことで私の知らないことがたくさんあった。
弟も年を重ねてきてそれなりの人生がわかってきたのか生前、父親が話していたことを話してくれるようになった。
日本に住んでいる在日コリアンは決して国に帰ることはない。
今はもう5世が誕生している。2世のほとんどは日本で朽ちてく。
1世たちも1970年代はまだ国に帰るかもしれないという気持が残っていた。
だから私の祖父が亡くなったのは1960年の6月、まだ日韓国交正常化していなかったがまだ国に帰る。そして自分たちは国に帰らなくても祖父の遺骨は故郷にもって行こうと考えていたのか墓地を買って祖父を埋葬したが墓石までまだ作っていなかった。
しかし1980年に入って3年後に祖母が亡くなった。
この時はもう国に帰らないと皆が思っていた。
父親は祖父の遺骨を国に持って行きたい気持はあったがなぜか韓国行きに足が向かなかった。まだ軍事政権の時代で父親は戦前の警察を中心とした協和会の役員をしていたので韓国に行くのに足を遠のかせた。
祖父が父親に「分家があまりにも金持ちになったのでもうお前は行くな」と言葉を残した。
しかしこれを書きながら思い出した。
分家は日本との国交が正常化すると訪韓を繰り返し駐大阪韓国総領事館の建物の建立にも多額の寄付金をしている。民団大阪本部会館施設や八尾支部会館など建物建立に多額な寄付をしてきた。
祖父が生きていたころはまだまだ政情が不安定で南北分断国家は父親の戦前の活動は分家筋にマイナスになると考えて祖父は「分家には行くな」と言ったようにも思うと今頃気がついた。
叔父たちは父親に内緒にして韓国に何度も行っている。(国交正常化したころ、叔父たちは父親に内緒で分家、祖父の弟にパスポートを作るときに身元保証人になってもらって韓国に何度も行っているということも最近、叔父から聞くことになった)韓国に行こうと私がいうと「俺が韓国に行ったら風呂敷包みのお金ですまへんのやで」と言った。
本家の長男として今まで故郷に何もしてこなかったので訪韓すれば韓国に住んでいる親戚筋にどれほどのことをしないといれないのか。父親なり韓国に行かなくても知っていた。
だから叔父たちが何度訪韓しても父親の名前ばかり出された。
分家筋が墓地など整理してくれたらしい。叔父が話していた。そしてその建立の名前は父親の名前にしていた。
これも訪韓していた叔父が父親に話した。
財閥になった分家筋だが韓国では「族譜」というのが重要視されて父親が直系筋の何世の第1子となるのでその血筋はなにがなんでも大事にされた。
父親の時代はそうした中で育ってきた。
私はそんなことはどうでもいいと思っていた。
民族教育を受けた従兄弟たちは我が家の血筋に会うと私に自慢していた。
そんな話を聞いていて私は違和感があったぐらいだった。
在日韓国人の中で新聞記者をするようになっても違和感がずっと会った。
ある日のことだった。
総領事を囲んでの記者懇親会があった。
たまたま私は総領事の前に座らされた。
向かい同士になったときに総領事は「両班」の話をした。
私は「両班」と言う言葉も違和感があって嫌いだった。
それで総領事につい意見をした。
「日本に住んでいると両班も何も関係がありません。在日韓国人にはそんなもの必要がありません。日本で生きて行く生活が大切です」と言った。
そしたら総領事は韓国語で静かに話した。
「チョンさん。そんなこと言ってはいけません。日本に住んでいても先祖の土地、出身地を大事にしないといけません。ましてチョンさんの家は韓国でも由緒ある家です。日本にいても自分の親の本貫を大切にして生きて下さい。これは大切なことです」と話された。
総領事がまさか我が家の先祖を知っているとは思っていなかった。
それには驚いた。
その後、しばらくして分家筋の長男と親しくしていた韓国政府派遣教師は私に分家筋の関係を話した。そして先祖を大切にするようにと言った。
「チョンさんの家の韓国語の系図など見せてもらって訳したことがあります。そこにはチョンさんのこともありました。それにチヨンさんの家では韓国では稀にみる家柄ですから大事にして下さい」と話された。
それから私は自分の親の故郷を大事にするようになって機会があれば何かで残していかないといけないと思っていたので書く機会があればこうして記録に残している。
「帰化」をしょうと思った30代の後半、それがどうなったのか民族を考える機会に処遇して自分のことを考えることになった。これも亡くなった祖父母が私の体を運んでくれたものと思っている。
父親は5歳で日本にきたが故郷の山、川の景色を覚えていた。その景色のあるところが自分の故郷であると思っていた。慶尚南道晋陽郡智水面が自分の故郷である。北朝鮮は自分の故郷の全体で国に帰るとしたに現在の晋州市に帰るものと思っていただろう。
弟ができて父親は日本で骨を埋める覚悟をして本名の表札を通名に変えた。
今から考えると日韓国交正常化のすぐ後だったと思う。
南北が分断したままの韓日国交正常にもう自分は日本社会で生きて行くと覚悟を決めたのたでろうか。戦後、南北分断国家になり在日の組織が2つになった時から生涯、民族・政治活動しないで日本の会社でサラリーマンを通した。
父親は韓国に帰らない。日本で朽ちていくと覚悟をしたのだろう。
それで父親はいつも「政治運動なんかしたらあかん。日本で暮らす経済構築をしないとあかん」と子どもたちにたえず言い聞かせていた。
だから父親は生涯、中立を通した。
9人兄弟という父親はその中で中立を通すのは大変だっただろう。
それを生涯貫き通した。
その背中を見て私は育っている。
だから北朝鮮という謎だらけに日本はどうすれば拉致被害者が全部とりもどせるのか考えてしまう。素人の私は何も考えは浮かんでこないがせめてニュースは見ておこうとニュースを見ていた。
こんな時いつも父親の言葉の数々を思い出す。
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