が、なんか派手で私らしくない。
若い時の私だったらそれが好みで気に入ったテンプレートになっていいだろう。
それが年を重ねて平凡に穏やかに暮らしているとレコード盤の派手さが落ち着かなくなってきた。それでいろいろ替えてみて気に入った画面が1つあった。抽象的な絵柄だったがおちついてそれにしょうかと思ったがちょっとイメージがぼんやりした感じに見える。
まだ私はぼんやりと過ごしていないのでまた絵柄を探した。
探しているとまた最初の頃のイメージに戻った。
最初ブログを作成して下さった人のイメージが葉っぱだったのでそのイメージに近いものとして竹の写真を選んだ。
文字は小さいが画面は見やすいのでこれにした。
テンプレートの図案は難しいだろう。小さい画面から気に入るもの。撮影する材料、絵柄にしても難しい。そんなことでついつい画面を変えてすみません。
昨日は9時にふとんに入って読みかけの本を読んだ。1昨日、鶴橋駅前の書店で買った現大統領をインタビューされた著書を昨日の夜読み上げた。
ソウルの町にある清渓川の復元工事、そこに住む22万人の商人との話し合い、4200回にも及んだという。経済発展を遂げる時に川を覆ったが今度は長年の覆いで中にメタンガスが発生していた。いつ爆発するかもしれない危険にさらされていたという。それなら川の原点に返って覆いを取り外して元の川に戻すこことにしょうと当時ソウル市長だった現大統領の当時の様子が話されていた。
そういえば多くは語らなかったがソウルの知人は「この川はものすごく苦労して作られたものだよ」と私に話された。覆いをはずすのに老朽化した鉄板の話はされたがそれ以上の話はされなかった。
たぶん知っていたと思う。自分の苦労話もされないので人の苦労話もこと細かく話されない。
著書を読んで清渓川の復元は多くの市民たちが作ったものと結ばれている。
著書の内容は家族の話、父母のことが書かれている。いつかまた大阪で過ごした苦労も良いことも親から聞いた話をまた話して下さることでしょう。話したくないこともたくさんあるでしょうがいつかは話して頂きたいものである。
日本から韓国に戻った人たち1950年代から60年代、みんな苦労していたことが著書を通して分かりました。
私が高校1年のときだった。仁川からきていいた弟の手紙には50万円の仕送りの依頼が書かれてあった。私の父親は激怒してそれで手紙の返事を出さなくなって母親に言った。「これであんたの韓国の家族と縁を切る」と韓国語で話していたことを食卓の席、子どものいる前で話していたことを覚えている。母親は黙って下を向いていた。今思うと母親の胸中はどんなだったのだろうか。
父親はまた言葉を母親に言った。
「女の子が高校に行かせているからよほどの金持ちだと思っている」と母親にまた言った。韓国語と日本語で言った。
母親は肝っ玉母さんだったので50万円のお金は商いの中から節約して貯めて送ったかもしれない。それを見越した父親は「縁切りを宣言した」
そのときの光景がまたよみがえってくる。
当時の日本社会も裕福ではなかった。私は幸運にも中学3年の担任教師が私の高校進学を勧めた。母親は無学だったので女の子でも手に職を付けたほうがいいということで働かさないで洋裁学校に行かすつもりだった。父親は私の美術の感性に美術科目のある高校に行かせて結婚しても友禅染めの下書きで家でもできる仕事を考えて京都市内の美術科目の高校を進めた。
しかし私は「絵の具代が大変だから地元の高校にいく。電車代の定期代もかからない。歩いていける木津高に行く」と行ったら父親は「絵の具代が大変だから」と言った言葉にいかに絵の具1本にも事欠くことを知ってそれ以上何もいわないで中学担任の教師が勧める地元の高校の進学に決めてくれた。
今も中学3年の担任教師に心から感謝をしている。
できの悪い私の進路を真剣に考えて下さったことを心から感謝をしている。
私の家もけっして裕福ではなかった。しかし子どもの頃からお腹をすかした記憶がない。
夫も子どもの頃、学校に弁当をもっていけなくて昼のときは運動場にいたという話を聞いた。私は親のおかげで空腹の記憶がない。
私は息子を育てる時に父親は私に何度も言った。
「いいものを食べなくても子どもにお腹をすかせてひもじい思いをさせたらあかん。腹いっぱいたべささなんあかん。おなかが空くと店に行って人の物をとるようになるから、いいものをたべなくても腹いっぱいたべささなあかん」と私に言い聞かせた。
この話を聞いて父親は母親に私たち子どもを育てる時にも言い聞かせていたのだろうと思う。学校から帰るとざるにいっぱいさつまいものをふかしたものが入っていた。おやつはさつまいものだった。ご飯は麦がはるかに多いご飯だったが釜にはいつもご飯があった。
お米は近所の米屋さんでツケで買っていた。
今考えると米屋さん、在日コリアンなのにツケをしてくれたのかとまた感心している。親はただただ正直に生きた人だったので地域で正直に生きて信頼につながるまで苦労した生き様が今は理解できる。
山城町上狛の軍需工場で戦前働いていた。戦後職をなくした。私が生まれ育った山城町で土地を売ってもらえないので木津町に中古の家を買って引越しをしてきた。私が6歳の時だった。子どもが学校に上るまで家の定着を考えていた父親の気持が今わかるようになった。
どこかで反面嫌いな父親が私の心の中にあるがどこかでちゃんと子どもの教育を考えていてくれたと今また分かるようになってきた。
私の子どものころ父親は「国籍を隠さないこと。それには真面目に正直に生きること。そしたら日本人も信頼してくれる」とよく言い聞かせていた。
現大統領の著書に父親が言っていた同じような言葉に改めて父親の生きてきた道が真っ正直に生きた人生だと改めて認識をした。
けっして偉くないもないかいしょうのない父親だった。現大統領の足元にも及ばない。
ただ真面目にひたすら努力をしていた。
日本の会社で定年まで勤めた。定年まで勤めた恩恵、母親は父親が亡くなってやっと気がついた。母親のところに何もしなくても父親の遺族年金が入ってきたので初めて私に言った。「おとうさんがな。会社をやめないでずっと働いてことが今、やっとわかったわ。おとうさんに今やっとありがたいというきもちになった」と話していた。
自分には向いていないと悟って母親の廃品回収業を一緒にしないでずっと日本の会社員で生涯を送った。
そして先日、若い同僚に聞いた話に父親がなぜ会社員をやめなかった理由がやっと分かった。父親は日本の社会の仕組みをきちんと把握していて世帯主の役割を果たしていた。だから今、弟は地域で皆と一緒に地域の行事に参加している。これも父親が残してくれた財産、また母親も地域で知らない人はいない。母親のとりえは正直者だった。今やっと親が生きてきた道のりのありがたさが分かる。
いつもかいしょのない父親は母親に苦労させたと思っていたが精神的には我が家の柱だった。そんなことをふりかえることができた著書だった。
そして清渓川の復元、ソウル市民の真心がいっぱいつまっていることが分かりソウルに訪れた際はそういう気持で川のほとりを歩いてみたい。
あっそうそう。テンプレート、当分の間、この画面で行きます。海外に出張しているK氏、あれこれテンプレート変えたのを知っているだろうか。しっていると怒られれるかもしれない。「俺のいないときにいらんことしてパソコンさわりな」と。いないときにしてブログでえらいことになって3日間、頭の中は大騒動だった。なんとかようやく落ち着いた。
若い時の私だったらそれが好みで気に入ったテンプレートになっていいだろう。
それが年を重ねて平凡に穏やかに暮らしているとレコード盤の派手さが落ち着かなくなってきた。それでいろいろ替えてみて気に入った画面が1つあった。抽象的な絵柄だったがおちついてそれにしょうかと思ったがちょっとイメージがぼんやりした感じに見える。
まだ私はぼんやりと過ごしていないのでまた絵柄を探した。
探しているとまた最初の頃のイメージに戻った。
最初ブログを作成して下さった人のイメージが葉っぱだったのでそのイメージに近いものとして竹の写真を選んだ。
文字は小さいが画面は見やすいのでこれにした。
テンプレートの図案は難しいだろう。小さい画面から気に入るもの。撮影する材料、絵柄にしても難しい。そんなことでついつい画面を変えてすみません。
昨日は9時にふとんに入って読みかけの本を読んだ。1昨日、鶴橋駅前の書店で買った現大統領をインタビューされた著書を昨日の夜読み上げた。
ソウルの町にある清渓川の復元工事、そこに住む22万人の商人との話し合い、4200回にも及んだという。経済発展を遂げる時に川を覆ったが今度は長年の覆いで中にメタンガスが発生していた。いつ爆発するかもしれない危険にさらされていたという。それなら川の原点に返って覆いを取り外して元の川に戻すこことにしょうと当時ソウル市長だった現大統領の当時の様子が話されていた。
そういえば多くは語らなかったがソウルの知人は「この川はものすごく苦労して作られたものだよ」と私に話された。覆いをはずすのに老朽化した鉄板の話はされたがそれ以上の話はされなかった。
たぶん知っていたと思う。自分の苦労話もされないので人の苦労話もこと細かく話されない。
著書を読んで清渓川の復元は多くの市民たちが作ったものと結ばれている。
著書の内容は家族の話、父母のことが書かれている。いつかまた大阪で過ごした苦労も良いことも親から聞いた話をまた話して下さることでしょう。話したくないこともたくさんあるでしょうがいつかは話して頂きたいものである。
日本から韓国に戻った人たち1950年代から60年代、みんな苦労していたことが著書を通して分かりました。
私が高校1年のときだった。仁川からきていいた弟の手紙には50万円の仕送りの依頼が書かれてあった。私の父親は激怒してそれで手紙の返事を出さなくなって母親に言った。「これであんたの韓国の家族と縁を切る」と韓国語で話していたことを食卓の席、子どものいる前で話していたことを覚えている。母親は黙って下を向いていた。今思うと母親の胸中はどんなだったのだろうか。
父親はまた言葉を母親に言った。
「女の子が高校に行かせているからよほどの金持ちだと思っている」と母親にまた言った。韓国語と日本語で言った。
母親は肝っ玉母さんだったので50万円のお金は商いの中から節約して貯めて送ったかもしれない。それを見越した父親は「縁切りを宣言した」
そのときの光景がまたよみがえってくる。
当時の日本社会も裕福ではなかった。私は幸運にも中学3年の担任教師が私の高校進学を勧めた。母親は無学だったので女の子でも手に職を付けたほうがいいということで働かさないで洋裁学校に行かすつもりだった。父親は私の美術の感性に美術科目のある高校に行かせて結婚しても友禅染めの下書きで家でもできる仕事を考えて京都市内の美術科目の高校を進めた。
しかし私は「絵の具代が大変だから地元の高校にいく。電車代の定期代もかからない。歩いていける木津高に行く」と行ったら父親は「絵の具代が大変だから」と言った言葉にいかに絵の具1本にも事欠くことを知ってそれ以上何もいわないで中学担任の教師が勧める地元の高校の進学に決めてくれた。
今も中学3年の担任教師に心から感謝をしている。
できの悪い私の進路を真剣に考えて下さったことを心から感謝をしている。
私の家もけっして裕福ではなかった。しかし子どもの頃からお腹をすかした記憶がない。
夫も子どもの頃、学校に弁当をもっていけなくて昼のときは運動場にいたという話を聞いた。私は親のおかげで空腹の記憶がない。
私は息子を育てる時に父親は私に何度も言った。
「いいものを食べなくても子どもにお腹をすかせてひもじい思いをさせたらあかん。腹いっぱいたべささなんあかん。おなかが空くと店に行って人の物をとるようになるから、いいものをたべなくても腹いっぱいたべささなあかん」と私に言い聞かせた。
この話を聞いて父親は母親に私たち子どもを育てる時にも言い聞かせていたのだろうと思う。学校から帰るとざるにいっぱいさつまいものをふかしたものが入っていた。おやつはさつまいものだった。ご飯は麦がはるかに多いご飯だったが釜にはいつもご飯があった。
お米は近所の米屋さんでツケで買っていた。
今考えると米屋さん、在日コリアンなのにツケをしてくれたのかとまた感心している。親はただただ正直に生きた人だったので地域で正直に生きて信頼につながるまで苦労した生き様が今は理解できる。
山城町上狛の軍需工場で戦前働いていた。戦後職をなくした。私が生まれ育った山城町で土地を売ってもらえないので木津町に中古の家を買って引越しをしてきた。私が6歳の時だった。子どもが学校に上るまで家の定着を考えていた父親の気持が今わかるようになった。
どこかで反面嫌いな父親が私の心の中にあるがどこかでちゃんと子どもの教育を考えていてくれたと今また分かるようになってきた。
私の子どものころ父親は「国籍を隠さないこと。それには真面目に正直に生きること。そしたら日本人も信頼してくれる」とよく言い聞かせていた。
現大統領の著書に父親が言っていた同じような言葉に改めて父親の生きてきた道が真っ正直に生きた人生だと改めて認識をした。
けっして偉くないもないかいしょうのない父親だった。現大統領の足元にも及ばない。
ただ真面目にひたすら努力をしていた。
日本の会社で定年まで勤めた。定年まで勤めた恩恵、母親は父親が亡くなってやっと気がついた。母親のところに何もしなくても父親の遺族年金が入ってきたので初めて私に言った。「おとうさんがな。会社をやめないでずっと働いてことが今、やっとわかったわ。おとうさんに今やっとありがたいというきもちになった」と話していた。
自分には向いていないと悟って母親の廃品回収業を一緒にしないでずっと日本の会社員で生涯を送った。
そして先日、若い同僚に聞いた話に父親がなぜ会社員をやめなかった理由がやっと分かった。父親は日本の社会の仕組みをきちんと把握していて世帯主の役割を果たしていた。だから今、弟は地域で皆と一緒に地域の行事に参加している。これも父親が残してくれた財産、また母親も地域で知らない人はいない。母親のとりえは正直者だった。今やっと親が生きてきた道のりのありがたさが分かる。
いつもかいしょのない父親は母親に苦労させたと思っていたが精神的には我が家の柱だった。そんなことをふりかえることができた著書だった。
そして清渓川の復元、ソウル市民の真心がいっぱいつまっていることが分かりソウルに訪れた際はそういう気持で川のほとりを歩いてみたい。
あっそうそう。テンプレート、当分の間、この画面で行きます。海外に出張しているK氏、あれこれテンプレート変えたのを知っているだろうか。しっていると怒られれるかもしれない。「俺のいないときにいらんことしてパソコンさわりな」と。いないときにしてブログでえらいことになって3日間、頭の中は大騒動だった。なんとかようやく落ち着いた。
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