近鉄奈良駅から9時50分頃難波行き急行にのった。
若い20代のお母さんが赤いTシャツを着せた赤ちゃんを抱っこして私の横にあいていた座席に座った。きれいに化粧しておられた美人の奥さんだった。
赤ちゃんはこの不細工な顔の私をじっと見ている。最初は男の子かなと思いながら下を向いて居眠りをしていたがまた私はすぐ目を開けて赤ちゃんを見るとまだ私を見ている。
私は赤ちゃんに声をかけた。
「おばちゃんの顔をじっとみているのね。男の子かなと思ったら女の子みたいですね」と言うとお母さんは「みんなに男の子ですか聞かれます」といわれたので私は「最初は男の子かな思ったが2回目を見ると女の子だなと思いました」と話しした。
「おばあちゃんの家でも行かれるのですか」と聞くと「いいえ。母親のサークルがあるので行きます」と言った。
私は「あっそうですか。今はそんなサークルがあるのですか。それはいいですね。そうして1人でも多くの人と話しをする機会を作ってお母さんも息抜きと学ぶ場所を見つけて下さい。家にいたままだと誰とも会話しなくなるのでやはり親も会話をして子どもといい会話をして下さい」と話した。このとき赤ちゃんは少し退屈になったのかぐずりだした。
お母さんは「はい。はい」と言ってなだめた。
そこでお母さんに少しアドバイスをした。
「まだ少し早いですがもう少し大きくなると鞄の中に小さなスケッチブックと小さな色鉛筆セットを入れておくといいですよ。退屈になりだしたらそれを出してあげるとけっこう何かかいていますよ」と言うとお母さんは頭の回転が早い。「そうですね。その間それに集中していますからね」と話した。
そして私は「ほかに落書きさせないように注意をしてそうしたらいいです」と話した。そして私は「これは私も叔母さんから教えてもらって私もそうして子育てをしてきました。私のときはそんな気のきいた色鉛筆はなくて鉛筆でしたが」と言った。
私が息子を生んで子育てをしていた。息子を抱っこして相楽郡の木津の実家に帰ったことがあった。そしたら隣町の上狛にすんでいた父の姉が来ていた。(叔母は16歳で渡日。たぶん叔母も自分の親、筆者の祖母にそう教えてもらたのだろうと思っている)そのとき叔母は私に行った。「子どもを外に連れて出るときは鞄の中にノートと鉛筆を入れておいたほうがいい。子どもが退屈になったらそれを出してやると絵をかいて遊んでいるから」と教えてくれた。
叔母の教えてくれたことを私は実行した。
比較的にそれは役に立った。病院での待合室でもそうした。
これはいいことを聞いたと私は今もそう思っているので若いお母さんに話している。叔母は16歳で渡日している。
日本植民地時代になっても外に出るときは顔を隠すために上から上着をかぶって歩いたと言っている。
祖母がそんなふうに教えていたのだろう。そして器用な人だったので民族衣装も普段着る洋服も全部自分で作っていた。
そして叔母さんが作ってくれた子どものころのおやつ、メリケンコを焼いたものだったが甘くもない。さわかな味の当時で言う洋食だった。あの味、私は出せない。上品ないい味だった。祖母の焼いた卵焼きもそうだったと亡くなった叔父が言っていた。
16歳で渡日した叔母は1昨年91歳で亡くなった。
どんな思いで日本にきたのだろうか。
もっと生きている間に話を聞いておくべきだった。
しかし叔母が教えてくれた言葉は私の心に残っている。いいと思っているので次の若い世代に伝えている。
そしてその若いおかあさんもいいと思ってくださったのだろう。
「ありがとうござます」と言って学園前で降りて行かれた。
奈良市にも若い母親のサークル活動が出来ているようだ。これはいい。
私は若いお母さんに言っていた。
「母親も家で育児していても誰かと外で会話をしないといけません。自分育てのこともあるので外部の人との会話は大切です。私も子育てをしているときに外の空気がすいたくて2週間に1度図書館に行って帰りに友達の兄が経営していた喫茶店によって少しの時間でも話しをして帰るのが由一の楽しみでした。外の空気を吸った気持ちになった。子育てしていてもお母さんも会話が大事です」と言っていた。
自分の体験になっていたが会話がないと取り残されている錯覚を起こす。
今は母親のサークルがあるとはうらやましい。
時代の流れを感じ取りながら爽やかなお母さん。今の時代にきちんとしたお母さんに心地良い風が私の回りに吹いていた。
---
若い20代のお母さんが赤いTシャツを着せた赤ちゃんを抱っこして私の横にあいていた座席に座った。きれいに化粧しておられた美人の奥さんだった。
赤ちゃんはこの不細工な顔の私をじっと見ている。最初は男の子かなと思いながら下を向いて居眠りをしていたがまた私はすぐ目を開けて赤ちゃんを見るとまだ私を見ている。
私は赤ちゃんに声をかけた。
「おばちゃんの顔をじっとみているのね。男の子かなと思ったら女の子みたいですね」と言うとお母さんは「みんなに男の子ですか聞かれます」といわれたので私は「最初は男の子かな思ったが2回目を見ると女の子だなと思いました」と話しした。
「おばあちゃんの家でも行かれるのですか」と聞くと「いいえ。母親のサークルがあるので行きます」と言った。
私は「あっそうですか。今はそんなサークルがあるのですか。それはいいですね。そうして1人でも多くの人と話しをする機会を作ってお母さんも息抜きと学ぶ場所を見つけて下さい。家にいたままだと誰とも会話しなくなるのでやはり親も会話をして子どもといい会話をして下さい」と話した。このとき赤ちゃんは少し退屈になったのかぐずりだした。
お母さんは「はい。はい」と言ってなだめた。
そこでお母さんに少しアドバイスをした。
「まだ少し早いですがもう少し大きくなると鞄の中に小さなスケッチブックと小さな色鉛筆セットを入れておくといいですよ。退屈になりだしたらそれを出してあげるとけっこう何かかいていますよ」と言うとお母さんは頭の回転が早い。「そうですね。その間それに集中していますからね」と話した。
そして私は「ほかに落書きさせないように注意をしてそうしたらいいです」と話した。そして私は「これは私も叔母さんから教えてもらって私もそうして子育てをしてきました。私のときはそんな気のきいた色鉛筆はなくて鉛筆でしたが」と言った。
私が息子を生んで子育てをしていた。息子を抱っこして相楽郡の木津の実家に帰ったことがあった。そしたら隣町の上狛にすんでいた父の姉が来ていた。(叔母は16歳で渡日。たぶん叔母も自分の親、筆者の祖母にそう教えてもらたのだろうと思っている)そのとき叔母は私に行った。「子どもを外に連れて出るときは鞄の中にノートと鉛筆を入れておいたほうがいい。子どもが退屈になったらそれを出してやると絵をかいて遊んでいるから」と教えてくれた。
叔母の教えてくれたことを私は実行した。
比較的にそれは役に立った。病院での待合室でもそうした。
これはいいことを聞いたと私は今もそう思っているので若いお母さんに話している。叔母は16歳で渡日している。
日本植民地時代になっても外に出るときは顔を隠すために上から上着をかぶって歩いたと言っている。
祖母がそんなふうに教えていたのだろう。そして器用な人だったので民族衣装も普段着る洋服も全部自分で作っていた。
そして叔母さんが作ってくれた子どものころのおやつ、メリケンコを焼いたものだったが甘くもない。さわかな味の当時で言う洋食だった。あの味、私は出せない。上品ないい味だった。祖母の焼いた卵焼きもそうだったと亡くなった叔父が言っていた。
16歳で渡日した叔母は1昨年91歳で亡くなった。
どんな思いで日本にきたのだろうか。
もっと生きている間に話を聞いておくべきだった。
しかし叔母が教えてくれた言葉は私の心に残っている。いいと思っているので次の若い世代に伝えている。
そしてその若いおかあさんもいいと思ってくださったのだろう。
「ありがとうござます」と言って学園前で降りて行かれた。
奈良市にも若い母親のサークル活動が出来ているようだ。これはいい。
私は若いお母さんに言っていた。
「母親も家で育児していても誰かと外で会話をしないといけません。自分育てのこともあるので外部の人との会話は大切です。私も子育てをしているときに外の空気がすいたくて2週間に1度図書館に行って帰りに友達の兄が経営していた喫茶店によって少しの時間でも話しをして帰るのが由一の楽しみでした。外の空気を吸った気持ちになった。子育てしていてもお母さんも会話が大事です」と言っていた。
自分の体験になっていたが会話がないと取り残されている錯覚を起こす。
今は母親のサークルがあるとはうらやましい。
時代の流れを感じ取りながら爽やかなお母さん。今の時代にきちんとしたお母さんに心地良い風が私の回りに吹いていた。
---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます