あとは印刷した年賀状に一言、言葉を書き入れていく。今。10枚ぐらい書き始めたが時計はもう4時。パソコン開いてブログを書き込んですると5時になる。
そろそろ夕食の支度をしなければならない。
何をしょうか。
昨日は「おでん」をしたのでまだ大鍋にたくさん残っている。
少し具材を足して今夜も「おでん」にしようか。
夫は今日何も言わないで食べるが明日か明後日になると「もうおでんな、いらん」と憎たらしいことをいう。
今日、スーパーに行って私用の食バンも買わなければならないのに午後から雨が降ってきて行くのはやめた。
明日の分まであるので明日考えよう。
一気に表書きをした。100枚以上はあるだろう。夫の分入れるともう少しある。
この10数年、夫と私の年賀状の図案も違う。そして出す枚数もだんだん少なくしている。
夫は通名の年賀状である。私は本名で出している。
こんなことから在日韓国人の本名のことを知らない人からかつて昔、本名を名乗りはじめたころ電話がかかってきた。
「苗字が違うので離婚したのですか」と聞く。
「これが私の本名です」と言うと「それにしては日本語が上手ですね」という。私は通名でも国籍を隠さないで子どものころからずっときているのに変な質問に私は受話器をもったままこけそうになった。
年賀状も近年はインターネットで作成したきれいな美しい図柄が増えている。
私もプリント印刷機を購入しょうかなと思うがインクをいれたりする作業を思うと私には使いこなせないと考えて印刷に出してしまう。
近年の年賀状は私の不精がずいぶんでている。
昨年の年賀状をだしてきて昨年来た年賀状だけだしている。
ずいぶん不精になったと自分でも思っている。
専業主婦をしていたころは枚数も少ないので「紙版画」を作った。作る過程が楽しかった。 畳1面に紙版画をした年賀状を乾かした。
そんな作業も苦にならずにしていた。
仕事をするようになって25日過ぎてからやっとのことでかいている。
そういえば年末まで仕事をしていたことを思い出した。
大阪生野・東成区の鶴橋界隈を歩いて歳末の韓国市場を取材していた。
タイトルは「パップダ(忙しい)」で歳末、新年の茶礼に供える食材作りなどに忙しい市場をまわるのである。最近は若い記者が行くようになったので私はこの現場から外れた
そんなことで年末まで仕事しなくていいようになった。
「パップダ」の取材で市場に入るが日刊紙のころはその新聞社の名前を聞いただけで何を思ったのか1世のハルモニが水をまくふりして「カーラ(行け)、カーラ」と言って水をかけられた。1990年前後の話である。
現在の新聞社に変わってからはそんなことはなくなった。
みんな丁寧に答えてくれるようになった。
しかし1軒だけ言われた。
写真を撮っていると「写真代もらいます」と言う。それを聞いていたほかの店の人が「どうぞこちらでもよかったら撮って下さい」と快く言って下さって助かったことがあった。その店はかの有名な在日韓国人歌手の親戚の店だった。
親戚もこうして同胞のマスコミにも気をつかわれていたことがわかった。
それからここで韓国の食材を買えばいいのについ駅から近いところで買ってしまう。
「パップダ」でトック(餅)の作っているところも訪問して写真をとったこともあった。今は機械で切っている。子どものころトックを作り半渇きのトックを母や叔母たちが切っていたころを思い出してしまう店である。
年末まで仕事していて本当に家のことは何もできなかった。年賀状もやっさもっさして書いていた。
まだ若い時は夫の義母がいたので家族が30日、31日からあちらこちらから夫の兄の家にやってくる。私も暮から夫の兄の家に出かけた。
今は楽させてもらっている。
義母が亡くなってから夫の兄弟たちの訪問も少なくなったこともあるので私も夫も1月1日の早朝にでて茶礼をしている。
それだけでも楽になった。そして紅白歌合戦もやっと心落ち着けて見られるようになった。
今年は26日、今日に表書きを書いた。今夜に裏の言葉書きも終えて明日はポストに投函をしなければならない。
そんなことで、あーしんど。
これから夕食の支度です。
そろそろ夕食の支度をしなければならない。
何をしょうか。
昨日は「おでん」をしたのでまだ大鍋にたくさん残っている。
少し具材を足して今夜も「おでん」にしようか。
夫は今日何も言わないで食べるが明日か明後日になると「もうおでんな、いらん」と憎たらしいことをいう。
今日、スーパーに行って私用の食バンも買わなければならないのに午後から雨が降ってきて行くのはやめた。
明日の分まであるので明日考えよう。
一気に表書きをした。100枚以上はあるだろう。夫の分入れるともう少しある。
この10数年、夫と私の年賀状の図案も違う。そして出す枚数もだんだん少なくしている。
夫は通名の年賀状である。私は本名で出している。
こんなことから在日韓国人の本名のことを知らない人からかつて昔、本名を名乗りはじめたころ電話がかかってきた。
「苗字が違うので離婚したのですか」と聞く。
「これが私の本名です」と言うと「それにしては日本語が上手ですね」という。私は通名でも国籍を隠さないで子どものころからずっときているのに変な質問に私は受話器をもったままこけそうになった。
年賀状も近年はインターネットで作成したきれいな美しい図柄が増えている。
私もプリント印刷機を購入しょうかなと思うがインクをいれたりする作業を思うと私には使いこなせないと考えて印刷に出してしまう。
近年の年賀状は私の不精がずいぶんでている。
昨年の年賀状をだしてきて昨年来た年賀状だけだしている。
ずいぶん不精になったと自分でも思っている。
専業主婦をしていたころは枚数も少ないので「紙版画」を作った。作る過程が楽しかった。 畳1面に紙版画をした年賀状を乾かした。
そんな作業も苦にならずにしていた。
仕事をするようになって25日過ぎてからやっとのことでかいている。
そういえば年末まで仕事をしていたことを思い出した。
大阪生野・東成区の鶴橋界隈を歩いて歳末の韓国市場を取材していた。
タイトルは「パップダ(忙しい)」で歳末、新年の茶礼に供える食材作りなどに忙しい市場をまわるのである。最近は若い記者が行くようになったので私はこの現場から外れた
そんなことで年末まで仕事しなくていいようになった。
「パップダ」の取材で市場に入るが日刊紙のころはその新聞社の名前を聞いただけで何を思ったのか1世のハルモニが水をまくふりして「カーラ(行け)、カーラ」と言って水をかけられた。1990年前後の話である。
現在の新聞社に変わってからはそんなことはなくなった。
みんな丁寧に答えてくれるようになった。
しかし1軒だけ言われた。
写真を撮っていると「写真代もらいます」と言う。それを聞いていたほかの店の人が「どうぞこちらでもよかったら撮って下さい」と快く言って下さって助かったことがあった。その店はかの有名な在日韓国人歌手の親戚の店だった。
親戚もこうして同胞のマスコミにも気をつかわれていたことがわかった。
それからここで韓国の食材を買えばいいのについ駅から近いところで買ってしまう。
「パップダ」でトック(餅)の作っているところも訪問して写真をとったこともあった。今は機械で切っている。子どものころトックを作り半渇きのトックを母や叔母たちが切っていたころを思い出してしまう店である。
年末まで仕事していて本当に家のことは何もできなかった。年賀状もやっさもっさして書いていた。
まだ若い時は夫の義母がいたので家族が30日、31日からあちらこちらから夫の兄の家にやってくる。私も暮から夫の兄の家に出かけた。
今は楽させてもらっている。
義母が亡くなってから夫の兄弟たちの訪問も少なくなったこともあるので私も夫も1月1日の早朝にでて茶礼をしている。
それだけでも楽になった。そして紅白歌合戦もやっと心落ち着けて見られるようになった。
今年は26日、今日に表書きを書いた。今夜に裏の言葉書きも終えて明日はポストに投函をしなければならない。
そんなことで、あーしんど。
これから夕食の支度です。
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