鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

春の日差しに子どものころの私が-。

2006-03-11 18:35:49 | つぶやき
春らしくなってきた日差しに
私は小学校のとき誰も友達がいなかった。まだ妹と2人姉妹で父は京都の会社に務め母は廃品回収の商いにでていた。いつも家で妹と2人で留守番をした。
春休みは3月末からだった。4月の初めまで休みで宿題もなかった。日差しがゆるみ裏の縁側に母の縫い物の道具が入った竹で編んだざるを取り出してきては人形を作った。
母の縫い物の竹で編んだざるからハギレをだしては人形を作った。
たしか顔や手足、胴体は古いシーツの切れ端だったと思う。それで大小の人形を作った。服も作って着せた。髪の毛はそれもざるに入っている毛糸玉から作った。
作っているときが楽しかった。作り終わるとまた次の人形を作っていた。
どこから針金を手にいれたのだろうか。針金も入れて手足を曲がるようにした。
作った人形を見てくれるのは両隣3軒向こうに住んでいた日本人の子ども、私より2歳も3歳も下の女の子だった。
そういえば少し離れたところに住む在日同胞の子どもが1人、この人形をよく手にとって見ていた。そして1つの人形に名前をつけた。
「ちくわちゃん」だった。当時はみんな変な名前と言って笑った。
「なんでちくわなの」と言って笑ったが「ちくわちゃんやんもん」と言っていた。
今から考えると彼女の感性で個性だったと大人になって感心している。
そう言えば彼女は私より1歳下で成績優秀な子だった。高校時代に帰化申請をだして帰化していった。大手の企業に勤めていた。帰化した同胞と結婚していた。1965年から66年ごろの話である。このころの「帰化」は大変だっただろう。しかし当時、私も若かったのか大手企業に勤めていた彼女がうらやましかった。私は小さな会計事務所に勤めていた。所長がいて他に部・課長はいなかった。彼女の話に部長や課長の話にうらやましかった。
そして私が小学校高学年になったとき近所の店のショーウンドウに手作り人形が飾られていた。それはほんものそっくりの表情に作ってあった。プロが作った人形だった。
あんなふうに作りたいと思っていたら中学1年に弟ができて姉妹2人の生活は一変した。
弟の子守りと家事に明け暮れた。
のどかに人形を作っていることがなくなった。
今も人形を作りたい衝動にかられる。
ハギレをみると胸がドクドクするほど衝動にかられる。
子どものころに作ったものよりもっといいものができると思うと作りたい衝動にかられる。
ぐっとこらえる。作り出すとまた一途に人形作りをして仕事も家事もおろさかになると考える。仕事をしなくなって家にいるようになればと私の家にいるときの夢である。
2人の孫のうち1人は女の子、作ってやりたいなあとふと思うがこれもぐっとこらえている。
嫁さんの母親がどうみても手先が器用である。「これはあかんな」やっぱり自分のための人形づくりにしよう。
春の日差しが見え始めて縁側でせっせと幾つも人形を作っていた小学校の私を思い出しそのころから1人遊びが得意で今でも1人で喫茶店にも入る。食堂にも入る。
私の周りの女友達は「喫茶店に1人で入れない」と言うが私の1人で入るのがおかしいのだろうか。私は小学校のころずっと1人遊びをしてきたので1人で行動することが普通と思ってきたが私の幼少時の体験がおかしいのだろうか。
なんかそんなことも思い出して友だちはいないよりいたほうがいいに決まっているとまた1人で納得している。
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