今日は日差しがあったが今は重い黒い雲が垂れ込めている。
天気予報では雨と言っていたので雨がふるのだろう。
今日は夫が外出をした。
夫がいないとバソコン作業がはかどっていく。いると何かしらに追われている。
食べることに追われているのかもしれない。
朝から1本の原稿を仕上げて資料をコピーしたものを宅急便で送る作業もした。
明日に夕方に送ろう。明日は10時に大阪地裁が現場、民族団体の訴訟裁判である。また明日5時半起きになる。
バタバタしそうだ。
今日の空は墨を流したようだ。墨絵を描いて雨が降っている様子の雲はこんな風に描くのだろうかとみている。最近、ベランダはカーテンを閉めている。真夏の太陽はガラスを通り越して私の所までどんどん灼熱を通してくるのでカーテンを閉めてしまう。閉めると大分、光を遮断できる。
しかし家の中は暗い。
暗いので最初は落ち着かないが暑さのことを思って我慢しているとそれも慣れてくる。けれどこうして曇っている時はカーテンを開けてしまう。
あけると山々や周りの景色が見える。
雲の様子も見える。
土曜日の18日、生活費を引き出してそれぞれの銀行に振込みをする時に近鉄奈良駅近くの小西通りを歩いていた。
奈良市内では高級な寿司屋さんで知られる「すし常」の店の前を通ろうとすると玄関に桔梗と里芋の鉢植えが置かれていた。
桔梗は秋物と思っているのは間違いなのだろうか。
桔梗の植木鉢があった。薄紫色の桔梗にふと立ち止まった。
若い青春のころがふと甦ってくる。桔梗に少し特別な思いがある。
私の青春はペンフレンドというものが流行った。
私もごたぶんにもれずペンフレンドと手紙のやりとりをした。
もし私が日本国籍だったら結婚していたかもしれないが私は在日韓国人、結婚できるものではなかった。
高校卒業してからも手紙のやりとりは続いたが私の体から血を引く体験をしたことがあった。在日韓国人とは結婚できない私にそれなりに彼は悩んでいたのだろう。ある日、手紙の中に「ラシャメン(妾)」という映画を見てきたという文章に私の体から血が引いていった。
なるほど。在日韓国人とは結婚できないが2号さんあたりを想定していたのだろうか。私の血の気が引いた。
それから手紙のやり取りはしていたものの私は私なりの人生を作っていた。
勤務していた会社にも電話がかかったが「ラシャメン」の文面がいつもひっかかった。
そんなとき、中秋の名月の夜、手紙を書いたのだろうか。
中秋の名月を愛でているという文面の中に桔梗の押し花が添えられていた。
桔梗の花言葉は「永遠の愛」である。
そのときはこの花言葉に気になったが私を取り巻く環境は違っていた。
親は結婚のために見合い相手を人に頼んでいた。
私なりの青春を過ごして23歳で結婚した。
今みたいに新幹線が走っていれば遠距離恋愛も可能だっただろう。
新幹線が走行したのは私が19歳の時である。
東京とは怖いものというイメージがあった。なかなか東京に足が運べるほど私の月給は人並みで洋裁の月謝代と教材費と本と昼食代で消えていた。
親が決めた相手と結婚した。心の中に不完全燃焼を残したままになった。
20歳になったときに大阪で会っている。私が日本国籍だったら結婚してもいい真面目な良家の子息だった。親戚筋が創設した会社に就職していたが私は結婚の波にのっていた。
彼と燃え尽きることもなく私は夫と結婚した。
彼の心の中には青春の思い出が途切れるのが遅かったのだろう。35歳半ばで会社の人と結婚した。若い新入社員だったという。この会社には若い頃、よく電話をしていたのでいつの間にか女性交換手と仲良くなった。交換手が代表電話を受けていたのでいつのまにか私の名前を覚えられてしまった。
結婚してからは交換手との仲が続いていたので奈良に遊びにきた。
そんな彼女たちも結婚してそれぞれの家庭を持っている。
もう今は彼女たち、年賀状だけのやり取りになった。
彼女たちが大阪に来た時は会っていたが結婚するともう関西に来なくなった。
それぞれの家庭がある。そんな彼女から彼のことを聞いていた。
子どももできているだろう。もうとうに定年退職をしているだろう。
それなりに経済的に豊かな人だったので今頃は若い奥さんと悠々自適の生活をしているだろう。
新幹線で品川を通り多摩川を通過するとふと彼のことを思い出す。
が、もう遠い遥かな青春の思い出になった。
1970年代半ば、もう会社にコンピューターを導入して会社経営をしていたので彼もコンビューターは出来ると思っている。
このネットの画面を見ているのだろうかと思うが果たして私の本名は知らないだろうと思っている。文書を読んでいると私に思い当たることはあるかも知れないが----。
ふと玄関に置かれていた桔梗の花に遥か遠くになった青春を思い出していた。
彼と1度、大阪環状線の駅、鶴橋でばったりとあったことがあった。
もう10年以上も前になるだろうか。
私は鶴橋の駅で降りようと思ってドアを開くとドアの前に私に向かってにっこりと微笑んでいる男性が立っていた。私の降りた電車に乗ろうとしているところだった。私は一瞬のことで誰かかわからなかった。20代の時にあって以来会っていないので中高年になった顔は知らない。誰かな。民団関係の人かなと思ってさっさと降りた。降りてドアの方に振り返るともう彼は電車に乗っていた。電車は桃谷に向かって発車していた。
そして降りてから気がついた。
「あっ。○○さんや。何で大阪に」と思ったがもう後の祭、電車はすでに発車していた。そして私は思った。気がつかなくてよかった。電車が発車した後に気がついてよかった。思い出とはこんなものだと思った。
そして彼とはやはり縁のない人だったとまた認識していた。
彼は会社に勤務していたころは奈良にも大阪にもよく来ていたらしい。
奈良県内も大阪府内にも支社や支店があったのでよく来ていたと元交換手に聞いていた。
結婚してから会うこともなくなったので、中高年の顔をまったく分からなかったがにっこり笑った顔に若いときの面影があった。
ドラマのような一瞬だった。
それももう遠くになっていく。しかし私の心の中に刻まれた思い出がふとしたときに思い出している。
桔梗の花にふと青春を思い出していた。
もう私はもうすぐ65歳になる。行政から介護保険が届いている。
あれから長いこと生きたものだ。感謝をしないといけない。
私に運がなかったら寿命がなかったら、若い時にした心の病で命を落としていたかもしれないが多くの人に助けてもらって私は生き延びることが出来た。
それでこうして青春の思い出をふりかえることができる。
この彼はふと1度、会いたいなと思うが彼にも家族がいる。
家族に迷惑をかけてはいけないと思うので思い出だけをかすかに抱えている。晴耕雨読をしている彼の生活、どこかで私のホームページをみているかもしれないかなと思ったりするが果たして私の本名は知らないだろうと思っている。
東京に会議に2・3年に1度、訪問しても会議が終わるとタクシーで山手線の田町駅に駆けつけるか新幹線乗り場、八重州口に向かっている。ここからまだ京都まで2時間と少しかかる。京都からまた奈良に戻るのに40分近くかかる。
一目散に東京を離れている
重く垂れ込めた雲、雲がなくなり明るくなっている。
町の中でどこかしこに咲く桔梗、みんないろんな思い出があるだろう。
天気予報では雨と言っていたので雨がふるのだろう。
今日は夫が外出をした。
夫がいないとバソコン作業がはかどっていく。いると何かしらに追われている。
食べることに追われているのかもしれない。
朝から1本の原稿を仕上げて資料をコピーしたものを宅急便で送る作業もした。
明日に夕方に送ろう。明日は10時に大阪地裁が現場、民族団体の訴訟裁判である。また明日5時半起きになる。
バタバタしそうだ。
今日の空は墨を流したようだ。墨絵を描いて雨が降っている様子の雲はこんな風に描くのだろうかとみている。最近、ベランダはカーテンを閉めている。真夏の太陽はガラスを通り越して私の所までどんどん灼熱を通してくるのでカーテンを閉めてしまう。閉めると大分、光を遮断できる。
しかし家の中は暗い。
暗いので最初は落ち着かないが暑さのことを思って我慢しているとそれも慣れてくる。けれどこうして曇っている時はカーテンを開けてしまう。
あけると山々や周りの景色が見える。
雲の様子も見える。
土曜日の18日、生活費を引き出してそれぞれの銀行に振込みをする時に近鉄奈良駅近くの小西通りを歩いていた。
奈良市内では高級な寿司屋さんで知られる「すし常」の店の前を通ろうとすると玄関に桔梗と里芋の鉢植えが置かれていた。
桔梗は秋物と思っているのは間違いなのだろうか。
桔梗の植木鉢があった。薄紫色の桔梗にふと立ち止まった。
若い青春のころがふと甦ってくる。桔梗に少し特別な思いがある。
私の青春はペンフレンドというものが流行った。
私もごたぶんにもれずペンフレンドと手紙のやりとりをした。
もし私が日本国籍だったら結婚していたかもしれないが私は在日韓国人、結婚できるものではなかった。
高校卒業してからも手紙のやりとりは続いたが私の体から血を引く体験をしたことがあった。在日韓国人とは結婚できない私にそれなりに彼は悩んでいたのだろう。ある日、手紙の中に「ラシャメン(妾)」という映画を見てきたという文章に私の体から血が引いていった。
なるほど。在日韓国人とは結婚できないが2号さんあたりを想定していたのだろうか。私の血の気が引いた。
それから手紙のやり取りはしていたものの私は私なりの人生を作っていた。
勤務していた会社にも電話がかかったが「ラシャメン」の文面がいつもひっかかった。
そんなとき、中秋の名月の夜、手紙を書いたのだろうか。
中秋の名月を愛でているという文面の中に桔梗の押し花が添えられていた。
桔梗の花言葉は「永遠の愛」である。
そのときはこの花言葉に気になったが私を取り巻く環境は違っていた。
親は結婚のために見合い相手を人に頼んでいた。
私なりの青春を過ごして23歳で結婚した。
今みたいに新幹線が走っていれば遠距離恋愛も可能だっただろう。
新幹線が走行したのは私が19歳の時である。
東京とは怖いものというイメージがあった。なかなか東京に足が運べるほど私の月給は人並みで洋裁の月謝代と教材費と本と昼食代で消えていた。
親が決めた相手と結婚した。心の中に不完全燃焼を残したままになった。
20歳になったときに大阪で会っている。私が日本国籍だったら結婚してもいい真面目な良家の子息だった。親戚筋が創設した会社に就職していたが私は結婚の波にのっていた。
彼と燃え尽きることもなく私は夫と結婚した。
彼の心の中には青春の思い出が途切れるのが遅かったのだろう。35歳半ばで会社の人と結婚した。若い新入社員だったという。この会社には若い頃、よく電話をしていたのでいつの間にか女性交換手と仲良くなった。交換手が代表電話を受けていたのでいつのまにか私の名前を覚えられてしまった。
結婚してからは交換手との仲が続いていたので奈良に遊びにきた。
そんな彼女たちも結婚してそれぞれの家庭を持っている。
もう今は彼女たち、年賀状だけのやり取りになった。
彼女たちが大阪に来た時は会っていたが結婚するともう関西に来なくなった。
それぞれの家庭がある。そんな彼女から彼のことを聞いていた。
子どももできているだろう。もうとうに定年退職をしているだろう。
それなりに経済的に豊かな人だったので今頃は若い奥さんと悠々自適の生活をしているだろう。
新幹線で品川を通り多摩川を通過するとふと彼のことを思い出す。
が、もう遠い遥かな青春の思い出になった。
1970年代半ば、もう会社にコンピューターを導入して会社経営をしていたので彼もコンビューターは出来ると思っている。
このネットの画面を見ているのだろうかと思うが果たして私の本名は知らないだろうと思っている。文書を読んでいると私に思い当たることはあるかも知れないが----。
ふと玄関に置かれていた桔梗の花に遥か遠くになった青春を思い出していた。
彼と1度、大阪環状線の駅、鶴橋でばったりとあったことがあった。
もう10年以上も前になるだろうか。
私は鶴橋の駅で降りようと思ってドアを開くとドアの前に私に向かってにっこりと微笑んでいる男性が立っていた。私の降りた電車に乗ろうとしているところだった。私は一瞬のことで誰かかわからなかった。20代の時にあって以来会っていないので中高年になった顔は知らない。誰かな。民団関係の人かなと思ってさっさと降りた。降りてドアの方に振り返るともう彼は電車に乗っていた。電車は桃谷に向かって発車していた。
そして降りてから気がついた。
「あっ。○○さんや。何で大阪に」と思ったがもう後の祭、電車はすでに発車していた。そして私は思った。気がつかなくてよかった。電車が発車した後に気がついてよかった。思い出とはこんなものだと思った。
そして彼とはやはり縁のない人だったとまた認識していた。
彼は会社に勤務していたころは奈良にも大阪にもよく来ていたらしい。
奈良県内も大阪府内にも支社や支店があったのでよく来ていたと元交換手に聞いていた。
結婚してから会うこともなくなったので、中高年の顔をまったく分からなかったがにっこり笑った顔に若いときの面影があった。
ドラマのような一瞬だった。
それももう遠くになっていく。しかし私の心の中に刻まれた思い出がふとしたときに思い出している。
桔梗の花にふと青春を思い出していた。
もう私はもうすぐ65歳になる。行政から介護保険が届いている。
あれから長いこと生きたものだ。感謝をしないといけない。
私に運がなかったら寿命がなかったら、若い時にした心の病で命を落としていたかもしれないが多くの人に助けてもらって私は生き延びることが出来た。
それでこうして青春の思い出をふりかえることができる。
この彼はふと1度、会いたいなと思うが彼にも家族がいる。
家族に迷惑をかけてはいけないと思うので思い出だけをかすかに抱えている。晴耕雨読をしている彼の生活、どこかで私のホームページをみているかもしれないかなと思ったりするが果たして私の本名は知らないだろうと思っている。
東京に会議に2・3年に1度、訪問しても会議が終わるとタクシーで山手線の田町駅に駆けつけるか新幹線乗り場、八重州口に向かっている。ここからまだ京都まで2時間と少しかかる。京都からまた奈良に戻るのに40分近くかかる。
一目散に東京を離れている
重く垂れ込めた雲、雲がなくなり明るくなっている。
町の中でどこかしこに咲く桔梗、みんないろんな思い出があるだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます