インド映画『ミルカ』、いよいよ明日から公開です。先日来日したラケーシュ・オームプラカーシュ・メーラ監督にインタビューさせていただきましたので、その詳細をお伝えしたいと思います。
Q:最初にミルカ・シンのパンジャービー語で書かれた自伝「空飛ぶシク教徒 ミルカ・シン」を読んで、この映画の製作を思い立った、と聞きましたが、監督はその中の何に惹かれたのでしょうか。
監督:この本はパンジャービー語、つまりグルムキー文字で書かれていたので、私は読めませんでした。でも、写真がたくさんついていたので、それを目にしたのです。その後友人のお父さんがパンジャービー語が読めたので、一晩かかって読んだあと、内容を話して聞かせてくれました。それでミルカ・シンの少年時代のことや、競技生活のことなど、書かれている内容がわかり、すごい、と思ったのです。
私はもっと知りたいと思って、友人であるスポーツ記者に電話をしました。
「ミルカ・シンと会ってみたいんだけど、アレンジしてくれるかな?」
「いいよ。よく知ってるから任せてくれ」
彼が電話をしてくれて、3日後にはミルカ・シンの家がある北インドのチャンディーがルを訪ねていました。朝のフライトで行き、夕方のフライトで帰ってきたのですが、向こうではミルカ・シンとずっと話をしました。そして会った3日後には、この映画を作ろうと決めていたのです。
ミルカ・シンに映画製作の許可を願い出たところ、彼の元にはそういう申し出がいくつか来ていたにもかかわらず、快く承諾してくれました。その時彼が申し出た映画化の権利料は、たったの1ルピーでした。そこで私は、1960年発行の1ルピー札を渡したのです。物語は1960年から始まりますからね(笑)。
私がなぜ彼の伝記を映画化したいか、という理由を彼に話したのですが、それは彼が偉大なアスリートでたくさんの輝かしい記録を残しているからではなく、余人ができない足跡を残したからなのです。私は、すべての人の中にミルカ・シンを見ました。主婦であろうと、弁護士であろうと、医者であろうと、教師であろうと、どんな人の中にもミルカ・シンがいるのです。
ミルカ・シンは私の気持ちをわかってくれ、とても親切に接してくれました。彼の息子、ジーヴ・ミルカ・シンもとても親切で、「ラケーシュさんに製作許可をあげたら?」と父親に口添えしてくれました。それも、たったの1ルピーで、ですよ。
私も、そうやってキープした資金をすべて映画製作に使うのは申し訳なくて、自分の監督としてのギャラは受け取らないことにしました。ですので、私はノーギャラです。
映画で利益が上がったため、興行収入から1千万ルピー(約1900万円)をミルカ・シンに取ってもらいました。それが2ヶ月前のことになります。
Q:自伝とインタビューに基づいて映画のストーリーは作られていったのだと思いますが、脚本家のプラスーン・ジョーシーとはどのような作業がなされていったのでしょうか。
監督:2人で話し合って、脚本を作っていきました。プラスーン・ジョーシーは、それまで脚本を書いたことはありませんでした。いつも作詞を担当してくれていたんですが、今度は脚本を書いてみないか、まずは台詞を書いてみたら、と勧めたのです。で、その台詞を元に、私が脚本を書きました。私はいつも自分で脚本を、最低限撮影台本を自分で書きます。
この映画は、何と言えばいいか、私にとって最も映画的な過程をたどった作品でした。たとえば、映画のうち1時間10分は台詞がないのです。子供時代のつらい経験のシーンや、難民キャンプでのシーンは、台詞はほんの少しだけです。さらに、映画の最後20分はレースシーンなので、台詞は2つだけです。というわけでこの映画は、撮影が終わって編集テーブルに乗ってから作られていく作品だ、と思うようになりました。ですから完璧な脚本を書きあげて撮影に入る、ということは困難なのです。我々は撮影台本を元に、臨機応変に撮影をしていきました。確固たるストーリーはすでにあるわけですから、難しくはありませんでした。
チャンディーガルにミルカ・シンに会いに行った後、私は2つのシーンを書き上げました。一つは、冒頭のローマ・オリンピックのシーン。今でも憶えていますが、2ページ半にわたる分量のシーンでした。ミルカ・シンは振り返り、自分の子供時代を目にします。暗い子供時代、つまり父親が殺害されるシーンを目にするわけです。
もう一つは映画のラストシーンです。ミルカ・シンは勝利のあと競技場をランニングします。その時彼が横を見ると、子供時代の自分が一緒に走っている、というシーンです。
この2つのシーンを書き上げてプラスーン・ジョーシーに渡し、「さあ、この2つのシーンの間を埋めてくれ」と言いました(笑)。
「これが始まりで、これがエンド。そこに私の物語がある。彼は恐怖から逃げるために走り、その彼は今恐怖を克服して走っている。子供時代の彼は叫び、今子供時代の彼は微笑んでいる。これが始まりと終わりだ」
プラスーンは大きな仕事をしてくれたと思いますね。
もう1人、偉大な仕事をしてくれたのが、編集のP.S.バールティーです。詳しくストーリーを辿って、たくさんの解釈をほどこしてくれました。映画はこういう共同作業で成り立っています。
今回は、基本の素材自体が非常に強力なものでした。飛行機の中のシーンにしろ、姉とのエピソードにしろ、すでに本に書かれて存在しています。我々がなすべきことは、それを映画に翻訳することだけでした。幸運にも手にした強力な素材を、映画的な言葉に移し替えていくのが我々の仕事でした。
Q:そういえば、監督は飛行機のシーンでカメオ出演してらっしゃいましたね。パイロット役でしたが、あれはどういう経緯で実現したのでしょう?
監督:あれは私じゃありませんよ(笑)。私はほら、ヒゲを生やしているでしょう? あのパイロットにはヒゲがなかったし。私は関知していません(爆笑)。
Q:(あらあら、こんなユーモラスな面もあるとは。監督のお人柄は人を引きつけるようです)カメラマンのビノード・プラダーン(カリンポン出身のネパール系インド人で、『アルターフ 復讐の名のもとに』(2000)や『デーウダース』(2002)など著名な監督との仕事も多くこなしている撮影監督)とも『Rang De Basanti(愛国の黄色に染めて)』以来ずっとタッグを組んでいますね。
監督:ビノード・プラダーンとは3本一緒に仕事をしていますね。私がまだ広告業界にいた頃に知り合ったから、ずっと昔でもう10数年前になりますか。長い間彼と一緒にやりたいと思っていて、『Rang De Basanti(愛国の黄色に染めて)』でやっと実現しました。
その前に1本撮りたい映画があったんですが、それがテロリズムに関する作品でね。ある国ではテロリストとされる人間が、別の国では自由を求める活動家とみなされている、という内容で、パキスタンの活動家が主人公でした。インドから見るとテロリストになるわけで、誰もそんなストーリーは受け入れられないとして、映画にすることはできませんでした。私は、これは人間の物語なんだ、こちら側から見るとテロリストでも、向こう側では自由を求める活動家になる主人公なんだ、と説明したのですが。
結局このストーリーを撮ろうとして、3~4年の間いろいろやってみたものの、映画にはできませんでした。そんな時ビノード・プラダーンと出会い、一緒に映画を撮ることになったのです。それが『Rang De Basanti(愛国の黄色に染めて)』ですね。
Q:『Rang De Basanti(愛国の黄色に染めて)』でアーミル・カーンらが演じる主人公たちも、自由を求める若者である反面、大臣を暗殺したりするテロリストとも言えますが。
監督:いや、彼らはあくまでも学生です。あれは学生についての映画を作りたい、と思ってできた作品です。自分のカレッジ時代の体験に基づいていているんですね。
1977年のインドは非常事態宣言下にあって、暗い時代でした。私がカレッジに入ったのは1980年で、その頃はちょっと事態が変化していました。汚職官僚や国を裏切った政治家が告発されたりして、世の中が変わり始めていたのです。でも、カレッジは居心地よい空間で、車だ、バイクだ、アパートだ、というような話ばかり。その後監督になってみて、友人たちからもそんな話をいろいろ耳にしたので、あの映画を作ってみたのです。
あと、私は空軍関係の高校で勉強したのですが、その時ロシアの戦闘機ミグが学校に置いてありました。中の機器とかはなくて、外側だけだったんですが、学習に使われていました。あとになってわかったのですが、防衛省でミグ戦闘機を巡る大きな汚職事件があって、ある男は200億ルピーもの賄賂を取っていたとか。その戦闘機はまったくの不良品で「空飛ぶ棺桶」と呼ばれており、それが原因で起こった事故で、200人もの若いパイロットが亡くなっています。この事件は腹に据えかねたので、映画の中で描いたわけです。
(つづく。下は監督にサインしていただいた現地版ポスター)