グルヴィンダル・シング監督へのインタビューは続きます。
cinetama:とはいえ、すごくリアルに当時の様子が再現されていましたね。シク教徒軍の兵士や政府軍の兵士たちとかも、当時そのままの感じでした。
監督:そうしないと真実味が出ないでしょう。ボリウッド映画じゃないんだし(笑)、派手な描き方をして、途中でラブストーリーやソング&ダンスを入れるような作品とは違いますからね。僕は監督は、物語を語っていくだけではなく、また芸術表現をするだけでもなくて、歴史家でないといけないと思っています。つまり、出来事を記録していくドキュメンタリストというか、ある出来事を様々な角度から見ていく見方を観客に提供するために、物語をドキュメントしていくわけです。ある事件を描く時は、人々の記憶を呼びさまし、想像力をかき立てるようにする。どんなことが起きたのか、その時人々はどれほどの困難に直面したのか。そうすることによって、公式に記録された歴史上の出来事を、いろんな角度から見つめ直すことができると思います。そういう個人的なことは、歴史の記録には出てきませんから、それに光を当てるのが我々の仕事です。
cinetama:この映画の元は、短編小説だそうですね。
監督:2編の短編小説を1つに繋げました。
cinetama:まったく違う話を繋いであるわけですが、1人の男が両方に共通して出て来ます。カタログでは「ジュガル」となっていて、英語版ウィキペディアのこの映画の紹介でもそうなっていたんですが、映画には名前が出てこず、エンドクレジットでも「Man 1」となっていますね。
監督:映画には、名前は出てこないはずですよ。最初に駅に来る2人の名前が「ジュガル」と「ラージ」というのは、元の短編の中でのことです。ウィキペディアは、誰かがそれを知っていて、名前を入れたんでしょう。でも映画では、名前を付けないで、「Man 1」「Man 2」にしました。
cinetama:この「Man 1」を両方の物語を繋ぐ人物にしたのは、あなたのアイディアですか?
監督:そうです。駅のシーンに続く村のシーンでは、妻と子を連れた彼が道に迷い、ジョーギンダルの家にやってくる。そこからジョーギンダルの話が始まるようになっています。
cinetama:どうしてこの2編を選んだのですか?
監督:原作本は、5編か6編収録されている短編小説集です。どの短編も1980年代のことが描かれているんですが、この2編を選んだのは、物語がドラマティックな構造になっていたからです。最初の話は、2人の男が何とか列車に乗ろうとする話で、これは公共の場で進行します。”列車”から生じるのは誰にとっても楽しい記憶でしょうが、それがこの中では、まるで動く牢獄みたいな恐怖を感じさせるものになっています。この、公共の場での出来事に対し、続くジョーギンダルの話は家の中、プライベートな場で進行します。安全で、好きなことが言える場所、自由に振る舞える場所ですね。両者を対比させ、補い合う形にしたんです。その中で2つのドラマが起きる、というのが本作です。
cinetama:最初の物語の舞台となる駅の名前が「フィローズプル」と出てくるんですが、これも原作にあったのでしょうか。
監督:いや、違います。原作ではジャランダルの駅でした。本当はジャランダル駅でロケしたかったんですが、1984年当時、ジャランダルはまだ電化されていなかったんです。それで、まだ電化されていない駅を捜して、フィローズプルになりました。駅の形態もイギリス統治時代がそのまま残っていましたし、ロケ場所にぴったりでした。ジャランダルで撮ったら、電気機関車が入ってきたりして困ったことになっていたでしょうね(笑)。
cinetama:この映画を作っていた時、どんな観客を想定していましたか?
監督:特に観客は想定していませんでした。自分の考えに忠実に、妥協しないで映画を作れば、作品自体が観客を見つけてくれると思っていましたから。商業映画を作っている人たちは、観客が見に来てくれて、製作費を回収しなければならないというプレッシャーがあると思いますが、僕はありがたいことにNFDC(National Film Development Corporation/インド映画振興公社)やフランスの映画ファンド、UKアート・フィルムが出資してくれたおかげで、そういうプレッシャーを感じずに済みました。観客を意識して、語り口をわかりやすくしたりすることも不要で、妥協せずに、自由に作品を作れたと思います。それに、観客にこびなくても、いい作品というものは観客を惹きつけるものです。今日、明日には気に入られなくても、10年、20年後に評価されるかも知れないですしね。
cinetama:インドでは最近公開されたそうですね。観客の反応はいかがでした?
監督:期待していたような反応は得られなかったけれど、多くの観客が映画を気に入ってくれました。特にムンバイの観客からいい反応がありました。映画を作っている映画界の人たちが、こういう映画を見たがっていたんです。もちろん、メディアの素晴らしい映画評や紹介も後押しをしてくれました。多くの媒体が取り上げてくれて、とてもいい評価をしてくれたんです。今後DVDが出て、テレビ放映されると、もっとたくさんの人に見てもらえると思います。
cinetama:シク教徒の人からは、熱い反応があったのではありませんか?
監督:いや、聞いた話なんですが、今でもカーリスターンを支持している右派の人たちは、この作品が気に入らなかったそうです。そう、今でもカーリスターンの支持者はたくさんいますよ。インド在住の人だけではなく、英米とかに住む多くの海外居住者が支援しています。そういう人たちは、この作品をいいとは思わなかったようです。
cinetama:そうですか、私は字幕を作るため何度か映画を見ていて、シク教徒の人たちが「♫サッチェー・ナーム、ワーヘー・グル(真なるその御名を、導師様を讃えよ)」の歌を歌いながら行進していく所など、グッときたんですが。
監督:あなたはパンジャービー語ができるの? できない? ヒンディー語ができるのか。英語字幕がないところにも日本語字幕が出て来たので、パンジャービー語ができる人が字幕を付けたんだな、と思ったんだよ。
cinetama:私が英語字幕から訳して、パンジャービー語の専門家の溝上富夫先生に監修していただいたのです。でも、何かしゃべっているのに英語字幕が出ないと、やっぱり調べて日本語字幕を入れますよ。
監督:実は、この日本語字幕をインドでDVDを出す時に使わせてもらいたいんだけど。
cinetama:それはアジアフォーカス・福岡国際映画祭の事務局に許可をもらって下さい。私としては、二次使用料なしで提供しますから、その旨事務局の方に言っておきますね。
cinetama:あと小さな質問をいくつかしたいのですが。まず、犬のトミーに関してです。トミーはプロの演技犬ですか?
監督:いや、違います。犬種はヒマラヤン・シープ・ドッグと言うんですが、ヒンディー語では「ガッディー・クッター(Gaddi Kutta)」と言います。ガッディーは山地遊牧民の部族で、その人たちが飼っている犬なので「ガッディー・クッター」と言うんですね。とてもどう猛な犬で、家畜を守るために農場で飼われている犬です。この犬種の犬がどうしてもほしかったんですが、プロの犬の中にはいませんでした。トレーナーには、この犬を訓練するのはすごく難しい、映画で使う1年前からやらなくては、と言われました。でも、我々に許された期間は3ヶ月だったので、結局双子の1歳犬を買い、トレーナーに預けたんです。ですので、映画出演時は犬は1歳3ヶ月だったんですね。トレーナーがいろいろ訓練してくれたんですが、犬に演技をつけるのはやっぱり難しかったです。
cinetama:トミーが死ぬシーンは、ハエが足にたかるなど、とってもリアルだったんですが...。
監督:あのシーンではトランキライザーを使って、犬を眠らせました。大丈夫、トミーは元気で、今はチャンディーガルで暮らしていますよ(笑)。
cinetama:よかった、トミーが本当に死んだんじゃないかと心配していたんです(笑)。それと、もう一つ些細な質問なんですが、ジョーギンダルの家にいた人たちがよくわからなくて。ジョーギンダルの母親、妻と2人の子の他には...
監督:ジョーギンダルの叔父さん、「チャーチャー」と呼んでいたので、ジョーギンダルの亡くなった父の弟ですね。それからその妻、「チャーチー(叔母)」と、あと息子です。そのほか、ジョーギンダルの友人であるサンマーがいました。
cinetama:あともう一つ、ジョーギンダルとサンマーが村に出て来てお医者さんに行きますが、あの時いた老人、ムカーはどういう人ですか?
監督:彼は「ニハング」です。ニハングはシク教徒のコミュニティの一つで、兵士のグループです。常に青い長衣を着ていて、下にはパジャマ(ズボン)を穿いていません。普通ニハングになるのは、シク教徒の中の低カーストの人たちです。
cinetama:シク教徒の中でも、カースト制が存在しているんですか?
監督:ないはずなんですが、いろんなカーストの出身者がシク教徒になったわけで、そういう認識が残っているんですね。イスラーム教徒や、低カーストのヒンドゥー教徒からシク教に改宗した人もいますから。シク教の教えではカーストは存在しないのですが、事実はちょっと違っているわけです。上位カーストの人でシク教徒になった人は、現在でも優位性を保っていますし、グルドワーラー(シク教寺院)も、上位カーストの人たちの行く寺院と、低カーストの人たちが行く寺院は別になっています。もちろん、どこにお参りしてもいいわけですが、低カーストの人たちは上位カーストが行くグルドワーラーには足を向けません。厳然と分かれています。パンジャーブ州では、4割のシク教徒が低カーストですね。ムカーはそういう低カースト出身のニハングなので、犬を殺す仕事をしていたわけです。
cinetama:それにしても、俳優たちがみんなまるでその人本人かと思うような演技で驚きました。みんなプロの俳優ですか?
監督:ジョーギンダルの母親役はプロの俳優です。あと何人かプロの俳優がいますが、これまでは舞台俳優として仕事をしていたとかで、いずれにしても映画初出演の人が多いです。ムカー役の人、サンマー役の人、それからジョーギンダルの奥さん役の人、どの人も映画初出演です。ジョーギンダル役のスヴィンダル・ヴィッキーは舞台俳優で、テレビドラマには出たことがありますが、彼も映画は初めてです。最初に登場する2人の男は2人ともプロの俳優ではありませんし、彼らが出会うシク教徒たちも素人です。車掌役の人は本物の車掌を退職した人です。彼は制服も手配してくれて、元の職業だったからとても自然に演じていました(笑)。ほとんどの人が、初めて映画に出た人ばかりです。
グルヴィンダル・シング監督は、プネーの映画・テレビ研究所の監督科の卒業生で、今も研究所でワークショップを行っているそうです。自分が演技科の学生たちを指導し、製作中である映画について話してくれる時は、やさしい先生の顔でした。また、9カ国の9人の監督によるオムニバス映画『In The Same Garden』の1編も作り終えたところだそうで、サラエヴォ国際映画祭でお披露目されたばかりだとか。彼の次の作品に出会うのを楽しみにしていましょう。
『pk』(cinetamaさんのコメントできちんと書き分けようと決心^^;)を見て、
シク教についてあまり知らないなーと気がついたんですが、
この『彷徨のゆくえ』のQAやインタビューで、おかげさまでちょっと知識が増えました。
『タレンタイム』他ヤスミン監督作品、『ソング・オブ・ラホール』、『pk』などを見て、
日本であまり馴染みがない宗教や宗派の違いにすっかり興味が惹かれるようになりました。
東京で見られるチャンスがあればいいな~。
あ、cinetamaさん、Filmexごくろうさまです~(^^)何本か見たいと思ってます。
宗教ファクターはほぼすべてのインド映画に登場しますので、これまでご覧になった作品でももう一度ご覧になると、そうだったのか!となったりすると思います。
シク教は『ミルカ』を筆頭に、ちょっぴり登場する作品には『たとえ明日が来なくても』『マルガリータで乾杯を!』などがあります。
神戸ほど立派ではないようですが、東京にもグルドワーラー(シク教寺院)があるので、一度いらしてみては?
http://sikhjapanese.blogspot.jp/p/blog-page.html
今だともっといろいろ理解できそうです。
シク教寺院、東京にもあるとは!
今月、阿佐ヶ谷のミニシアター「ユジク」でインド映画特集があり、
『聖者たちの食卓』という、シク教総本山の寺院で1日10万食(!)無料でふるまわれている食事作りの舞台裏を追ったドキュメンタリーが上映されるようです。
https://yujiku.wordpress.com/movie_india/
ご紹介のサイトを見ると、どこの寺院でも(もちろん東京も)信者でなくても無料で食事を提供してるんですね。
信じるってことはすごいなーと思わずにはいられません。
TIFFにIFFJに例年より早いFilmex、
平行して一般公開や特集上映、
ああ、うれしいやら忙しいやら…(*^^*)
私は9月16日の上映でこの映画を観ましたが、2つの話の繋がりや物語の背景がよく分からなかったのでcinetamaさんの解説と監督インタビューはたいへん助かりました。
ところで、原題の「第4の方角」の意味を知ろうと原作小説の英訳版を読んでみたのですが、まず予想に反し、短編2つのうち「第4の方角」が列車パート、「私は大丈夫だ」が農村パートの話でした。19日の上映時のQ&Aでは、監督は「第4の方角」は最後に選ばざるを得ない方角であると語っていますが、小説ではややニュアンスが違うような気がしました。
小説「第4の方角」の主人公のラージ・クマール(英文ウィキでは両方の話に出てくるのはジュガルとなってますが、それは間違いでラージの方です)が幼い頃に祖母に聞かされた昔話が”第4の方角”です。ある国の王子が4つの方角を示され、その中で唯一生命の危険を伴う第4の方角を敢えて選び、困難に打ち勝ち財宝を手に入れたというお話。同じ”王子”の名を持つ主人公が、妹の結婚式に向かう途中シク教徒と同伴するハメになり、最後は危険な”第4の方角”に向かって歩き出した、というオチです。
もう一つの農村パートの小説は、地面に臥し息絶えようとしているトミーがあたかも「自分は大丈夫…」と言っているようにジョーギンダルを見つめたところからこのタイトルがつけられています。(後日、ジョーギンダルも同じ台詞を発します)。
何というか、映画も同様ですが、忠犬トミーの辿る運命があまりにも不憫で印象が強く、もはやパンジャブの政情やら人々の置かれた状況などは二の次になってしまったような気がしないでもなく。
こちらこそ、小説との関係がよくわかり、大変助かりました。
「第4の方角」についてのご教示も、そうだったのか、と納得する思いです。
犬のトミーは名演だったと思います。
見た人がみんな感銘を受けたようで、映画のタイトルを言うよりも「犬のトミーが出ている映画」で話ができてしまう、といった状況が出現していました。
監督は、「”動物は一切傷つけていません”というテロップも入れ忘れた」と言ってましたが、それがなかったものですから、私は結構真剣に心配してしまいました。
地味な作品なので、日本公開は難しいかと思いますが、何かの機会に福岡以外でも上映されるといいですね、