アジア映画巡礼

アジア映画にのめり込んでン十年、まだまだ熱くアジア映画を語ります

『彷徨のゆくえ』@アジアフォーカス・福岡国際映画祭(2)

2016-10-04 | インド映画

前回はインド映画『彷徨のゆくえ』の作品紹介をしましたが、今回と次回はグルヴィンダル・シング監督のインタビューをアップします。その前に、9月19日(月)に行われた第2回上映時のQ&Aについても、ちょっとご紹介しておきましょう。


:映画の背景がよくわからなかったのですが。

監督:この映画の背景にあるのは、1980年代にパンジャーブ州で起こった出来事です。1947年のインドとパキスタンの独立で、パキスタンはイスラーム教徒の国になり、パンジャーブ地方も二分されました。パキスタン側にいたヒンドゥー教徒とシク教徒はインド側に移ってきて、インド全体ではヒンドゥー教徒が多数派であるものの、インド側パンジャーブ州の住人の中ではシク教徒が多数派となったのです。その後、シク教徒はいろいろと不利な立場に置かれたので、権利の拡大を求めるようになりました。1980年代になると原理主義の人たちが台頭してきて、暴力的な行動が目立ち始めます。そして1984年、シク教の聖地であるアムリトサルの黄金寺院に立てこもったため、政府軍による制圧が行われました。その後はさらに多くのシク教徒が闘いに参加するようになったのです。そのためにシク教徒とヒンドゥー教徒の対立が激化した、というのがこの映画の背景になります。(監督は最後、違うことを言っていたように思うのですが、訳が途中ではしょられてしまいました)

 

: 列車に乗ろうとした2人がなぜあんなに急いでいたのか、という理由が出て来なかったですね。

監督:あえて理由を示さなかったのは、そういう状況にならざるを得なかった、というところを強調したかったためです。つまり、最終列車だったのになぜ彼らが間に合わなかったのか、というと、軍の規制があったからです。彼らが一晩中駅に居ざるを得ない状況に陥ったのは、そこに軍が展開する緊迫した情勢があったからで、それを見せて、急いでいた理由はこの中では示しませんでした。人は選択肢が皆無になって、そうせざるを得ない状況に追い込まれる時がある。つまり、主人公のジョーギンダルも、二度と政府軍やシク教徒軍を家に来させないためには、もうトミーを殺すしかない。意志に反しても、私たちが何か行動をしなければならない状況に置かれることがある、それが映画の原題である「第4の方角」、最後に選ばざるを得ない方角、ということなんです。

 

:インディラー・ガーンディー首相を暗殺したのがシク教徒だったと思うんですが、映画の出来事はそれより前の時代だったのかどうか、うかがいたいです。

監督:あえていついつと日時を設定したくなかったので、「1980年代パンジャーブ州」という風にテロップを出しました。実際にゴールデンテンプルが政府軍に制圧されたのは、1984年の6月です。映画の中で、シク教徒の人たちがBBC放送のニュースを聞いており、そのあとみんなで黄金寺院に向かおうとして警察に止められるシーンがありましたが、こういった一連のシークエンスは、もしかしたらフラッシュバックで思い出しているのかも知れない。あるいは実際に起こったことをそこで切り取って表現しているのかも知れない。そういった解釈については、観客の判断にゆだねています。従って観客の皆さんには、これが現在のことなのか、それとも過去のことなのか、そういった形でいくつもの見方をしてもらえるはずです。


:出てくるシク教徒たちは特にヒンドゥー教徒に敵意を持っているように思えなかったのですが、宗教間の対立は個々人の間ではそんなになかった、ということでしょうか。

監督:個人レベルでは、当然のことながら憎みあうといったことはまったくありませんでした。村でも町でも、ヒンドゥー教徒とシク教徒はよき隣人であり、友人でした。私自身も、母方の祖母がヒンドゥー教徒、祖父がシク教徒という家庭出身ですし、伯母のうち、2人はヒンドゥー教徒の家庭に嫁ぎ、私の母はシク教徒に嫁ぎました。宗教間の憎しみというのは、政治家たちによって人為的に作られたものです。映画の中では、ヒンドゥー教徒2人がいる所に中年のシク教徒がやってきて、3人で行動することになります。彼らが列車の車掌室に乗ると、そこには若いシク教徒が2人いる。互いに、相手が信頼できるのかと疑心暗鬼になったりしますが、それがあの時代だったんですね。でも、今はそんなことはありません。どの宗教にも原理主義的な人はいますし、狂信的な人もいますが、ほとんどの人は宗教によって相手を憎んだりしない、リベラルな人ばかりです。ヒンドゥー教徒もシク寺院にしばしばお参りしますし、シク教徒もヒンドゥー寺院に参ったりしていますよ。

 

Q(司会者):吠える犬のトミーに托された思いは?

監督:犬は感じたことをそのまま、吠えるという形で表現します。人間は計算して反応しますが、犬は本能で何にでも反応する。家に知らない人が近づくと吠えますし、何にでも恐れず反応する、ということのメタファーであると言えますね。人間は結果をいろいろ考えて行動してしまうのですが、その点犬は違う。そういった動物と人間のコントラストが描かれています。


その後監督と立ち話をする機会を得て、まずは字幕翻訳者としてのお詫びをしておきました。「本番用の上映素材として、2箇所のテロップが落ちたものが届いたのですが、その時点で監督に確認を取ればよかったですね。字幕用の映像には入っていたこのテロップがないと、観客にはわかりにくいですよ、とメールすればよかったのに、本当にごめんなさい」「そうなんだよ。今回上映に使われたのが古いヴァージョンで、背景を説明した冒頭のテロップと、場面が切り替わるところに入れた”数ヶ月前”というテロップはあとで入れたんだ。でも、時間や場所を特定しないで起きた出来事、という解釈で観客には見てもらいたいから、問題はないよ」と、やさしく言って下さったグルヴィンダル・シング監督に感謝です。そして、映画祭の臨時事務局に場所を移して、30分間インタビューをさせていただきました。(日本でのインド映画の状況を説明するために、『pk』のチラシを渡したりしています)


cinetama『彷徨のゆくえ』は、作るのが大変難しかったのでは、と思います。なぜ、今の時期にこのような作品を作ろうと思われたのですか?

監督:一連の事件が起きた時、僕は10歳で、デリーに住んでいました。僕はパンジャーブ州で暮らしたことはなくて、デリーのシャーリーマール・バーグ地区(北部の住宅地)で大きくなったんです。小学生でしたが、ゴールデン・テンプルの事件があったあと、インディラー・ガーンディー首相が暗殺された日のことをよく憶えています。1984年の10月ですね。
学校はすぐさま休校になり、スクールバスで家に帰されることになりました。「インディラー・ガーンディー首相はシク教徒のボディーガードに撃たれた」という情報も入ってきたのですが、それをきっかけにシク教徒の僕は、自分の宗教を突如として自覚するようになったのです。「僕はシク教徒だ。同じシク教徒のボディーガードが首相を撃った」そう思いながらバスに乗り込もうとした時、担任が僕をじっと見つめていることに気がつきました。その時先生は、こう言ったのです。「シク教徒に思い知らせてやらなくちゃ」。彼女のターゲットは、明らかに僕でした。(苦笑い)
そして明くる日には、デリー中で暴動が起きて、シク教徒が殺されたり、家に押し込まれたり、火が掛けられたりしている、というニュースが伝わって来ました。僕たちはなすすべもなく、数日間家にじっと閉じこもっているしかなかったのです。シク教徒は数家族しかいなかったし、家をロックして、カーテンも閉じたまま、カーテンの隙間から覗いて外の状況を知るような状態でした。グルドワーラー(シク教寺院)が燃やされていたのが見えました。

その後はパンジャーブ州全体が戦争のような状態になり、シク教徒の教団兵士が罪もないヒンドゥー教徒を殺害したり、今度はヒンドゥー教徒がまた報復したり、爆弾を爆発させたりというような状態が続きました。結婚式すらも攻撃目標になって、多くの犠牲者が出ました。こういう状態が長く続いたので、人々は自分の宗教と向き合うことになり、その後10年ぐらいの間、常に自分の宗教を意識しながら生活することになったのです。

僕も少年でしたが、突如として、自分が攻撃を受ける側のシク教徒に属している、という自覚が芽生え、その後何年間かそういう意識が持続していきました。今振り返ってみると、子供だったからこそよけいに鮮明に記憶が残ったのだと思います。

後年(映画の原作になった)小説を読み、自分はここに書かれている人たちの人生と繋がりを持っている、あの時のパンジャーブ虐殺事件に関わった人たちと自分は繋がっているんだ、という思いを強くしました。だから、小説を元にこの映画を作ろうと思ったのです。
映画を作ることは、過去の時間と場所を再現するだけではありません。それを超えて、今の現実に響くようなものを作らないといけない。映画は普遍的なものです。どんな人にも、どんなコミュニティにも響いていくものがある。映画の中で描かれたことは、どこの誰にでも起こりうることだ。現実の世界を見ると、インドでもカシミールで事件(パキスタン側の襲撃を受け、インド軍兵士19人が死亡した事件)が起きたりとかしていて、この映画に描かれた恐怖と同じことを味わっている人々がいる。単にパンジャーブ州だけでなく、1980年代だけでなく、どこのどんな人でも、これと同じ状況に陥る可能性があるんです。政治的な出来事にはなすすべもないごく普通の人が、あるセクトやカースト、宗教に属していることによって、普通の生活から危機的な状況に引きずり込まれる。そういう普遍的な出来事として、本作を作ったんです。

(つづく)

 


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