劇場でプラバース主演作『SALAAR/サラール』を見てきました。大きなスクリーンで見るのは初めてではなく、以前試写の時も結構大きなスクリーンで見せていただいたのですが、今日は目の前のスクリーンがこっちに迫ってくる感じのところで見たので、その圧迫感もひとしお。どっぷりとカンサール王国に沈んで来ました。このあと、ネタバレがありますので、未見の方は映画をご覧になってから読んで下さいね。本編上映前に予告編での大衝撃があったのですが、それは礼儀上のちほど最後に。
これ ↗ が、頼りになる『SALAAR/サラール』案内本=劇場用パンフレットの表紙です。今回も、キャスト&スタッフ紹介に続いて、①主要キャラクター20人の紹介、②キャラクターチャート(『K.G.F:CHAPTER1&2』のパンフでも活躍のmotoさんによる図解『SALAAR/サラール』ワールド)、③プロダクション・ノート(業界の方は「プロノ」と略することを最近知りました)、④天竺奇譚さんによるコラム「『SALAAR』は新たな叙事詩となるのか」、と、映画を見る前に&見てから読んでためになる情報が搭載されています。観客の中には、超潔癖性?な方もいて、映画を見る前はどんな情報も入れたくない! という方もいるようですが、この『SALAAR/サラール』のような作品は、事前に物語の枠組みと登場人物のキャラと顔(なじみのない俳優がほとんどだと思うので、特にこちらは重要)は頭に入れてから見る方が、物語はぐっと面白くなると思います。私は最初、英語版Wikiやカーヴェーリ川長治さんのブログ記事を読んだりしてから日本語字幕付きの試写を見せていただいたのですが、内容に対する理解度は6割ぐらいだったと思います。その後Netflixにアップされているテルグ語版英語字幕付きのを見て、理解は1、2割増したものの、今回見直してやっと理解が9割近くになったところです。そしてその反対に、今度は疑問が多く膨らんできました。今日はその疑問をメモることを主眼に、この映画を整理してみたいと思います。
<疑問①>「カンサール」というこの都市国家ですが、映画の途中でその発端となる12世紀ぐらいの描写が入り、1947年の独立後もインド国内の都市国家として存続し続けてきていることが語られます。国内が群雄割拠的状態だったイギリス統治以前、そしてその後の独立までの期間ならまだしも、現代に鎖国状態の都市国家が存在している、というのはかなりとっびな発想です。とっぴではありますが、興味深い発想ではある(一瞬、西条奈加の「金春屋ゴメス」を思い浮かべました)ものの、その都市国家の基盤がインドの裏社会仕事である、というのは、いまひとつ現実味がありません。プラシャーント・ニール監督の前作『K.G.F:CHAPTER1&2』では、K.G.F.という炭鉱町がいわば今回のカンサールだったわけですが、「金」という外界との経済的取引ができるアイテムの存在と、大勢の金鉱労働者とその家族を登場させることで、日々の営みの仕組みがうかがえました。しかし今回は、裏社会仕事の恐怖と暴力面だけが登場し、「仕事」らしき場面は、グジャラート州の港からネパールに運ばれる”ブツ”に押された刻印が、インド側の税関や警察の人々を畏怖させる、というシーンのみ。中間マージンだけで国家財政は潤うのでしょうか? 潤わないから、前近代的な経済状態から、カンサールは抜け出せていないのでしょうか?
ただ今回、パンフの中にカンサールを構成する3部族の解説がしてあり、それらを総合すると、3部族の性質や関係がよくわかりました。ちょっと整理して書いておきます。
●マンナル族~3部族の中で最も強力な部族で、現政権を掌握しているラージャ・マンナル(ジャガパティ・バーブ)の父シヴァ・マンナル(プリトヴィラージ・スクマーランの二役)が、インド独立時の元首だった。1985年にシヴァ・マンナルが亡くなったあとは、シャウリャンガ族のダーラが継ぐはずだったが、ラージャ・マンナルはそれを認めず、シャウリャンガ族を殲滅して現在の地位に就いた。
●シャウリャンガ族~デーヴァとその母(イーシュワリ・ラーオ)もシャウリャンガ族。そのため、1985年の一族殲滅事件に遭い、アッサム州へと逃亡することになる(冒頭部分にこのシーンがあるのだが、細部ははっきりとは語られていない。そのため、ラストシーンでデーヴァの背景がわかり、観客は驚くことになる)。なお、当時シャウリャンガ族の人々は子供たちを下水道に隠して逃がしたため、何人かのシャウリャンガ族の生き残りがカンサールには潜んでいる。
●ガニヤル族~政権抗争に関わらなかったため生き延びた部族で、ラージャ・マンナルの統治組織の大領主として、数人が政権に関与している。そのうちの1人の言では、「シャウリャンガ族とは異なり、ガニヤル族は団結しない部族だったので殲滅を免れた」とのこと。
<疑問②>プラバースが演じる主人公デーヴァも、奇妙な人物に描かれています。冒頭の登場時は、友情に厚く、思い切った手段もいとわない豪胆な少年で、十分に知恵も持ち合わせている、という描かれ方ですが、それに続く母親を守るシーンでは、家の木製ドアを釘付けにして中にいる母親に手を出せないようにする、という稚拙な戦略で、最初見た時も首をかしげてしまいました。今回気になったのは、母親手作りの食事をデーヴァとヴァラダが取り合うようにして食べる、というシーンで、この時ヴァラダの母親である第2妃は健在であったはずなのに、母親の愛情に飢えているようなこの描写は何なんだろう、と思いました。実はこれまで、ヴァラダに弟がいて、兄や「先生」ら兄の支持者と共に行動している、というのを全然認識していなかったのですが、気づいてみると、弟の年齢は20歳前後、つまり、デーヴァがカンサールを出た1985年にはまだ生まれていなかった=当時ヴァラダは一人っ子として、母親の愛情を一身に受けて育っていた、と考えるのが普通では、と思った次第です。大人になったデーヴァの「暴力の封印」のされ方も奇妙ですし、それらがすべて『2』で解明されるためには、かなり複雑なナラティブが必要になってくるでしょう。大丈夫ですか? プラシャーント・ニール監督。
疑問③ヒロイン役のアディヤ(シュルティ・ハーサン)の存在感が薄すぎます。アディヤとその父でアメリカ在住の実業家クリシュナカントがカンサールを去った理由は、『1』ではまだはっきりと明かされていませんが、『2』で全貌を語り、ついてはすべての因縁を解きほぐそう、というのが監督の考えなのでは、と思われます。それにしても、セリフは「Wait, wait(ちょっと待って)」のオンパレードで、アッサムの小学生たちにもバカにされ、アディヤ先生、いいところがまったくありません。デーヴァの母が「ヒットラー先生」と呼ばれるのなら、その向こうを張って生徒たちをぎゃふんと言わせるシーンぐらい入れておいてくれればいいのに、と思ってしまいました。まあ『1』では、事態を動かすきっかけとなる人物、という役割と、ビラール(マイム・ゴーピ)に車で運ばれながらデーヴァの過去を語って聞かせられる聞き役、という役割が課せられただけなのかも知れません。
ところでこのシュルティ・ハーサン、これまできちんとご紹介してきませんでしたが、タミル語映画の大御所でラジニカーントと並ぶトップ2の「スーパーアクター」、カマル・ハーサンの娘で、母親は1970年代に可憐な娘役としてヒンディー語映画で活躍した女優サーリカーです(上写真はちょっとピンボケですが、1996年に撮ったカマル・ハーサンとサーリカー。この後2004年に離婚してしまいます)。シュルティはお母さんそっくりの目が美しい女の子として1986年にチェンナイで生まれました。2009年にヒンディー語映画でデビューしたあとは、南インドのタミル語、テルグ語の映画にも多数出演、ラーム・チャラン主演のテルグ語映画『ザ・フェイス』(2014)にも出演していたことはご存じの通り。1991年生まれの妹アクシャラー・ハーサンも女優です。『1』では出番の少なかったシュルティ・ハーサンですが、『2』での活躍に期待しましょう。『SALAAR/サラール』の『2』は脚本は完成しているとのことですが、来年後半のできあがりになりそうです。
ところで、劇場でこの3日間に『SALAAR/サラール』をご覧になった皆さんの多くは、シャー・ルク・カーン主演作『JAWAN/ジャワーン』の予告編もご覧になったことと思います。公開は11月29日(金)。だいぶ先ですが、これから4ヶ月あまり待つ楽しみができそうです。では、その予告編、おっと、その前段階の「特報映像」をご覧下さい。インド映画の公開、まだまだ続きまーす。
映画『JAWAN/ジャワーン』特報映像
★オマケ★
ポスターのバックに使ってある写真は、汚い包帯をぐるぐる巻きにしたシャー・ルク・カーンの顔なんですが、これを見たシャー・ルクの下の息子アブラームは、「ミイラ男!」と叫んだそうです。コラコラ、パパの顔を見て何てこと言うんですか。でも、前方の写真はつるっぱげだし、アトリー監督、我らがシャー様にろくなことはしてくれませんねー。まだまだ驚きがいっぱいの『JAWAN/ジャワーン』です。「ジャワーン(जवान )」の意味は「若い、若者、兵士」などですが、ここでは「兵士」の意味でしょうか。どんな兵士なのかは、ご覧になってのお楽しみ。昨年9月にシンガポールで見た時の記事はこちらです。