「屏風」に、日常生活で親しんでいる人というのは、どんな風に暮らしているのだろう?
僕自身は「屏風」を実生活で使ったことがない。いまいち、実際の「使い勝手」というか、その有用性についての実感を持っていない。
現実の生活シーンのどこにも「屏風」を立てられるスペースはない。
まことに縁遠い、はずなのである。
であるにも関わらず、「屏風」のある景色について、僕の意識はなんの抵抗もなく、むしろすんなりすぎるほど自然に受け入れている。
なんなら、使ったことがないという事実を忘れてしまえる。
それが言い過ぎだとしても、そういう暮らしにあこがれさえ持っているというのは本当に本当。そういう「場」に出ていくことは稀にあったとしても、自分の暮らしの「自然」として、あたり前に「屏風」があるわけではない。
もし。。。(*‘ω‘ *)
可能であるなら(*‘ω‘ *)
豪邸なんかいらないけど、広大なお庭に平屋のスッキリしたお屋敷があればいいなあ~、くらいは思っている。ま、そっちの方がいまや贅沢極まりないって感じですけど(^ω^ゞ
日本の歴史を遡って任意の時代を覗けたとして。
それがいつの時代であっても「屏風」を置くにはそれにふさわしい「場」が必要だったはず。
ただスペースがあれば良い。。。というものでもなかろう(*‘ω‘ *)
にも関わらず、僕には「屏風」のイメージを自分の「自然」と認識していて、あまつさえ、ひとかたならぬ思い入れさえ持っている。
これは、ちょっと考えてみると、われながらいささか不思議な感覚である。
「知らない」くせに、「こだわり」がある?なんで(*‘ω‘ *)?
イメージというか、景色というか。どこか、そういう設えこそがリアルだと思っているところが自分の中にあって、現実の自分はそういう環境を手に入れているわけでもないのに、それを自分の自然と信じて、疑わない。
そんなこと、今まで気づきもしなかったけど、これを強烈に意識した(^o^;)
先だって、箱根のポーラ美術館で「シン・ジャパニーズ・ペインティング」展に足を運んだときのこと。
現代作家の描く、たくさんの「屏風」を目にしてきたわけだけど、これをなんの疑問も抱かず「よいな♪」とお気楽に眺めていた自分に、ふと気づいてしまって。
「屏風」というモノの実際の使い勝手も知らないのに、なぜに「よいな♪」と思えてしまうのか?この自分の感覚がどこから由来するのかが謎すぎて、そういう観点から先日の展示を思い出していた。
「黄金比」「ゴールデンラティオ」と呼ばれるプロポーションとはちょっと違う感覚。
日本の美的自然と呼ぶべき日本的プロポーションは「白銀比」「シルバーラティオ」がぴたりとあてはまる。いわゆる「大和比」と呼ばれる、日本版の神の比率。
これは日本の風景、日本のライフスタイルにあらわれる様々な景色にあって、息づいている。
だが、ただ単純にそういう比で切り取られるいるから美しいというわけでもない。
シンプルなルールが複雑に組み合わさる。そのプロポーション、その空間感覚に、僕は「和」の景色を見るのだけど、中でも「屏風」にはちょっとしたフレキシビリティーが持たされていて、実に融通が利きそうな設えでできている。「大和比」をちょっとばかり伸ばしたり、縮めたりすることも可能。
六曲一双のダイナミックなものから、茶室で何かを囲うような小さなものまで、シンプルな概念のフレキシビリティーの実際は、見ていて本当に面白い。
美術館で「屏風」を眺めていて、実に惜しいなぁと思ったのは、視線の問題だ。
あれだけたくさんの「屏風」を展示できたのなら、座敷で座る、その目線からの鑑賞を可能にする展示があってもよかった。
立って、歩いての鑑賞という視線に合わせての展示は美術館の自然かもしれないが、「屏風」の自然とは程遠い。
ぜひとも座らせてほしい!と思う(*´ω`*)
この視線の違いは、作品の迫力とか、繊細さとか、そういう感覚に決定的な違いを生み出してしまうと思うのだ。
僕自身は「屏風」を実生活で使ったことがない。いまいち、実際の「使い勝手」というか、その有用性についての実感を持っていない。
現実の生活シーンのどこにも「屏風」を立てられるスペースはない。
まことに縁遠い、はずなのである。
であるにも関わらず、「屏風」のある景色について、僕の意識はなんの抵抗もなく、むしろすんなりすぎるほど自然に受け入れている。
なんなら、使ったことがないという事実を忘れてしまえる。
それが言い過ぎだとしても、そういう暮らしにあこがれさえ持っているというのは本当に本当。そういう「場」に出ていくことは稀にあったとしても、自分の暮らしの「自然」として、あたり前に「屏風」があるわけではない。
もし。。。(*‘ω‘ *)
可能であるなら(*‘ω‘ *)
豪邸なんかいらないけど、広大なお庭に平屋のスッキリしたお屋敷があればいいなあ~、くらいは思っている。ま、そっちの方がいまや贅沢極まりないって感じですけど(^ω^ゞ
日本の歴史を遡って任意の時代を覗けたとして。
それがいつの時代であっても「屏風」を置くにはそれにふさわしい「場」が必要だったはず。
ただスペースがあれば良い。。。というものでもなかろう(*‘ω‘ *)
にも関わらず、僕には「屏風」のイメージを自分の「自然」と認識していて、あまつさえ、ひとかたならぬ思い入れさえ持っている。
これは、ちょっと考えてみると、われながらいささか不思議な感覚である。
「知らない」くせに、「こだわり」がある?なんで(*‘ω‘ *)?
イメージというか、景色というか。どこか、そういう設えこそがリアルだと思っているところが自分の中にあって、現実の自分はそういう環境を手に入れているわけでもないのに、それを自分の自然と信じて、疑わない。
そんなこと、今まで気づきもしなかったけど、これを強烈に意識した(^o^;)
先だって、箱根のポーラ美術館で「シン・ジャパニーズ・ペインティング」展に足を運んだときのこと。
現代作家の描く、たくさんの「屏風」を目にしてきたわけだけど、これをなんの疑問も抱かず「よいな♪」とお気楽に眺めていた自分に、ふと気づいてしまって。
「屏風」というモノの実際の使い勝手も知らないのに、なぜに「よいな♪」と思えてしまうのか?この自分の感覚がどこから由来するのかが謎すぎて、そういう観点から先日の展示を思い出していた。
「黄金比」「ゴールデンラティオ」と呼ばれるプロポーションとはちょっと違う感覚。
日本の美的自然と呼ぶべき日本的プロポーションは「白銀比」「シルバーラティオ」がぴたりとあてはまる。いわゆる「大和比」と呼ばれる、日本版の神の比率。
これは日本の風景、日本のライフスタイルにあらわれる様々な景色にあって、息づいている。
だが、ただ単純にそういう比で切り取られるいるから美しいというわけでもない。
シンプルなルールが複雑に組み合わさる。そのプロポーション、その空間感覚に、僕は「和」の景色を見るのだけど、中でも「屏風」にはちょっとしたフレキシビリティーが持たされていて、実に融通が利きそうな設えでできている。「大和比」をちょっとばかり伸ばしたり、縮めたりすることも可能。
六曲一双のダイナミックなものから、茶室で何かを囲うような小さなものまで、シンプルな概念のフレキシビリティーの実際は、見ていて本当に面白い。
美術館で「屏風」を眺めていて、実に惜しいなぁと思ったのは、視線の問題だ。
あれだけたくさんの「屏風」を展示できたのなら、座敷で座る、その目線からの鑑賞を可能にする展示があってもよかった。
立って、歩いての鑑賞という視線に合わせての展示は美術館の自然かもしれないが、「屏風」の自然とは程遠い。
ぜひとも座らせてほしい!と思う(*´ω`*)
この視線の違いは、作品の迫力とか、繊細さとか、そういう感覚に決定的な違いを生み出してしまうと思うのだ。