夜の公園をお散歩した。
暑すぎる十五夜。
例年、どれだけ暑くても、十五夜の、その夜の空気はもう少し落ち着いていたように思うのだが。。。
今年は例外中の例外らしい。
いや。今年は年頭から。
それこそずっと。
異例なことばかりが、ずっと続いてきたように思う。
たまに思うのだが、天候に人が左右されるのか?人が天候を左右するのか?
自然が猛威をふるうと言うけど、その猛威は本当に自然の、ものなのか?
自然の怒りとか言うけれど、その怒りを焚きつけている者はいないか?
それとも、ただただ、自然のある種のサイクルに突入しただけで、人の営為など、端から取るに足らないものなのか?
。。。と、とりとめもなく考え始めたので、あわててその考えを止めた。
いろいろ異例なことばかりの今年ではあるが。
十五夜の月は煌々と輝いている。
ここまで明るいのは。。。そういえばあまり見たことないかも(*‘ω‘ *)
思い出してみると、雲がほとんどなかったような。。。
不思議なほど明るい(*‘ω‘ *)
これを美しいと言えるかどうか。
風情のステレオタイプに寄せて考えると、味気ないほどにスッキリしていて、しかも明るすぎる。
だが、純粋に月が投げかける光そのものは、遮るもののない宙を突き抜けて、そのままダイレクトに届いているかのよう。
ある種の完璧さというのは、人が思うような、理論値的なものではないのかもしれない。
ゆらぎと呼ぶには、極端に過ぎる気候変動でさえ、「完璧さ」の中に含まれるのかもしれない。
「狂っている」と、僕らが思わず指摘してしまうことの中には、実は「パーフェクト」からもたらされた歪みが正しく現れていると、言うべきなのかもしれない。
ふと「かぐや姫」のことを思った。
彼女が月へと「帰る」とき。
羽衣を着てしまうことで、それまでの記憶や感情をすべて失う。
そうなることをわかっていて。すべてを置き去りする覚悟が最初からあって。
羽衣を纏う。
その時の月の光は、果たして風情溢れる「ステレオタイプ」な情景を照らし出したのだろうか?
むしろ、遮るものなどまったくなく、感情的な引っ掛かりなどまるでないような。
理論物理的な、理想値そのままの光線。それが月の光。
そんな想像をする。
感情的拠り所を与えることのない光線。そんな月の光の中で、瞬間にあらゆる記憶を失うのは、至極当然のようにも思われる。
その光が「完璧」なのか、「狂っている」のか。そもそも、その価値判断にどれほどの意味があるのか?
ただ、「かぐや姫」はそれをわかっていた。
不思議な理不尽を人に突きつける人物として描かれてきた「かぐや姫」だが、物語の最後にあっては、独り、その身に「理不尽」を引き受けてきた人こそが「かぐや姫」であったことが明かされる。
「狂っている」ことを「ルナティック」と言ったりするのも、「かぐや姫」の物語の前にあっては、少々「情緒的」に過ぎる。
「完璧」な「月の光」の中では、「狂う」ことなど許されるはずもない。
暑すぎる十五夜。
例年、どれだけ暑くても、十五夜の、その夜の空気はもう少し落ち着いていたように思うのだが。。。
今年は例外中の例外らしい。
いや。今年は年頭から。
それこそずっと。
異例なことばかりが、ずっと続いてきたように思う。
たまに思うのだが、天候に人が左右されるのか?人が天候を左右するのか?
自然が猛威をふるうと言うけど、その猛威は本当に自然の、ものなのか?
自然の怒りとか言うけれど、その怒りを焚きつけている者はいないか?
それとも、ただただ、自然のある種のサイクルに突入しただけで、人の営為など、端から取るに足らないものなのか?
。。。と、とりとめもなく考え始めたので、あわててその考えを止めた。
いろいろ異例なことばかりの今年ではあるが。
十五夜の月は煌々と輝いている。
ここまで明るいのは。。。そういえばあまり見たことないかも(*‘ω‘ *)
思い出してみると、雲がほとんどなかったような。。。
不思議なほど明るい(*‘ω‘ *)
これを美しいと言えるかどうか。
風情のステレオタイプに寄せて考えると、味気ないほどにスッキリしていて、しかも明るすぎる。
だが、純粋に月が投げかける光そのものは、遮るもののない宙を突き抜けて、そのままダイレクトに届いているかのよう。
ある種の完璧さというのは、人が思うような、理論値的なものではないのかもしれない。
ゆらぎと呼ぶには、極端に過ぎる気候変動でさえ、「完璧さ」の中に含まれるのかもしれない。
「狂っている」と、僕らが思わず指摘してしまうことの中には、実は「パーフェクト」からもたらされた歪みが正しく現れていると、言うべきなのかもしれない。
ふと「かぐや姫」のことを思った。
彼女が月へと「帰る」とき。
羽衣を着てしまうことで、それまでの記憶や感情をすべて失う。
そうなることをわかっていて。すべてを置き去りする覚悟が最初からあって。
羽衣を纏う。
その時の月の光は、果たして風情溢れる「ステレオタイプ」な情景を照らし出したのだろうか?
むしろ、遮るものなどまったくなく、感情的な引っ掛かりなどまるでないような。
理論物理的な、理想値そのままの光線。それが月の光。
そんな想像をする。
感情的拠り所を与えることのない光線。そんな月の光の中で、瞬間にあらゆる記憶を失うのは、至極当然のようにも思われる。
その光が「完璧」なのか、「狂っている」のか。そもそも、その価値判断にどれほどの意味があるのか?
ただ、「かぐや姫」はそれをわかっていた。
不思議な理不尽を人に突きつける人物として描かれてきた「かぐや姫」だが、物語の最後にあっては、独り、その身に「理不尽」を引き受けてきた人こそが「かぐや姫」であったことが明かされる。
「狂っている」ことを「ルナティック」と言ったりするのも、「かぐや姫」の物語の前にあっては、少々「情緒的」に過ぎる。
「完璧」な「月の光」の中では、「狂う」ことなど許されるはずもない。