
この6月はいろんなことがあり過ぎて、なにを言おうにも、なにかが引き止めるというような感覚にとらわれることが多い。
それは今なお継続中だけど、実は6月に限ったことではなく、この感覚こそ、この10年ほど僕につきまとってきたものなんだ!ということにこの頃は自覚的になれている。
いや、その自覚は10年前にも確かにあったはずなのだ。だが、その自覚ほどには具体的な対策だとか、対処法は持ち合わせていなかった。そのおかげで、ずいぶんといらぬ遠回りをさせられたものだ。
いつだって気に留めるべきことは多いもの。
詳しく書くべきことでもないのでここでは端折るが、自分の努力だけではとうてい太刀打ちできないということはままあるものだとしても、時代のムード。。。というか、潮流の変わり目をいくつか待たなければならかったというのは、過ぎ去ってみて、後から振り返ってみて、それでようやく輪郭がつかめたか?と言えるかもしれないような、そういう質の相手であったので、その時々の「現在」だけを見つめていたって解決できたりするようなものじゃなかった。
分かるまでの間は、それは得体の知れないなにかのままでいるわけだけど、そういう質の相手に対して、なにがしかのメソッドというか、対処の仕方というのは、時間をかけた分だけ、自分なりに仕上がってきていたようでもある。
やってきたことよりも常に自分の期待の方が上に位置していると、自分の進歩も、成果も、いつだって物足りないもの。だけど、もう少し、自分のやってきたことを信じてあげてもよいのでは?くらいに思えるようになってきた。これは、ひょっとしら「いらぬ遠回り」が僕にもたらしてくれたギフトなのかもしれない。ものすご〜くポジティブに考えれば。。。ね。
直接的にはまったく関係ないように思われるのだが、富士登山はそうした自分を本当に支えてくれていた。
これに気付いたのは、ごくごく最近のこと。
もちろん、最初から意図したものではなく、後から振り返ってみれば。。。ということではあるけれど。
今年はすでに2回の登頂を果たしているのだが、何回登ったかを気にしているわけではない。
富士山を歩いているときに自分が感じていることが、僕にとっては本当に大事なのである。
梅雨らしい(?)雨が降り続いているけど、夏至を越えてしまったからには、また富士山を歩く計画を立てねばならない。