御三階櫓
中は、資料館になっている。
やっぱ、城下町には城があったら似合いますね。
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人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。
心に望み起こらば困窮したる時を思いだすべし。
堪忍は無事長久の基、怒りを敵とおもえ。
勝つことばかり知りて、負くることを知らざば、害その身にいたる。
おのれを責めて人を責むるな。
及ばざるは過ぎたるより勝れり
徳川家康
こんな碑も近くにありました。
桜を添えてみました。
思い出すまでもなく、困窮したる時ばかり。
勝ったことが無く、負けばかり。
なれど、
おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり
如何に思召さるや。
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松山城は、松山市の中心部の山頂にある。
登城には、リフトかロープウェイが用意されている。
本丸に続く石垣。相当高いです。
築城は、
賤ヶ岳7本槍のひとりで、関ヶ原の戦いで戦功のあった
加藤嘉明が伊予・松山20万石を得て開始された。
城が完成した頃、嘉明は会津へ転出。
蒲生氏が入り、
桑名より、親藩の松平家が入り明治まで続く。
なので、紋は、三つ葉葵。
1748年に落雷で天守が消失。
現在の天守は、江戸時代の最晩期の1854年に完成した。
松山城が完成し代々江戸時代が続くと思われたのに、
ペリーの黒船来港からがあり、江戸から明治へと歴史は移っていく。
幕府が完全に統治していた時代が突然終わり、
政権が明治に移り、5年後には、官営富岡製糸場や、東京大学、慶応大学などが出来、
現代とあまり変わらない政治の仕組みへと変わっていく。
日本っておもしろい。
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高知城
山内一豊により築城された。
一豊の出世物語は、一豊の妻 の話から始まりますよね。
上州のかかぁ天下とは 違うなぁ。
関ヶ原の論功により、
遠州掛川から、土佐一国の国持ち大名になりました。石高は20万石。
土佐に移った山内家。
掛川時代からの家臣を上士。
長宗我部氏旧臣を下士とした2層構造のまま幕末を迎える。
坂本龍馬、岩崎弥太郎、後藤象二朗
龍馬伝の面々が歩いたと思うと感慨深い。
山内容堂公の手による掛け軸。
時は移り幕末へ
容堂が政務を行ったであろう部屋。
現存 12天守のひとつ。
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犬山城 (長良川の対岸より)
信長の叔父。信康が築城。尾張(愛知県)と美濃(岐阜県)の境にあり
木曽川を天然の堀とした堅固なつくり。
小牧長久手の戦の折りには池田恒興が城主を務めていた。
現存12天守のひとつ。国宝4天守のひとつ。
次回は昼間に訪問しなきゃ。
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今治城
藤堂高虎の手により築城された。
海岸沿いを巧みに使い堀とした。
高虎は、浅井長政の家臣として仕え、
浅井家が信長に滅ぼされると、主君を替えながら、
秀吉の弟。秀長に仕え豊臣秀吉と共に天下統一、朝鮮の役などに参加。
朝鮮から帰国後、宇和島 8万石に加増される。
関ヶ原の戦いの論功行賞で、伊予半国を与えられ
宇和島、今治 20万石の大名となった。
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末森城
末森城
能登、加賀の境にあり、越中に通ずる交通の要衝。
小山と雑木林に覆われ、"城"という雰囲気はなく、"跡"になっている模様。
末森城の戦い
秀吉と徳川家康が、小牧長久手で対峙する頃、
秀吉方の加賀城主の前田利家と、徳川方の越中の佐々成政との戦い。
成政は、前田利家の領地加賀と能登を分断すべく、越中より15000の兵力で末森城を攻めた。
末森城の守将、奥村永福は、1500の兵力で応戦。
前田利家の援軍2500が到着するまで守りきった。
大河ドラマ、利家とまつ の中でも、大きなエピソードのひとつであった。
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桜も咲いているし、春風に誘われて、ここは、ひとつ城内へ。
以前ここから先は、金沢大学 があった場所
城内から見た石川門。
金沢大学が移転した後、
櫓や郭、石垣が次々と再現されて、観光の目玉になりそう。
河北門
以下 HP より抜粋
天正8(1580)年に織田信長の命を受けた佐久間盛政が築城を始め、
3年後の天正11(1583)年に前田利家が入城し、
明治2(1869)年まで加賀藩前田家14代の居城として金沢城が置かれました。
明治以後、終戦までは陸軍の拠点、
その後、平成7年までは金沢大学キャンパスとして利用されてきました。
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兼六園
兼六園
前田利家 公を藩祖とする加賀百万石、金沢城内にある庭園。
宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園
城郭の中央部。本来は天守閣や郭があるべき場所にあります。
敷地面積3万坪
徽軫灯籠と霞ヶ池
着物を着た美人さんが居たら画になるのにね。
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真田幸村の居城だった信州上田城に、
4月6日に、
信州上田おもてなし武将隊「真田幸村と十勇士」が、
結成されたと言う情報が入り、4/7に訪問。
写真のイケメンさんは小生
ではありません。
武将姿の真田幸村 甲冑も無料貸し出し。
専属のシャッターマンの方にシャッターを押して頂ける。
是非とも、貴方も、真田幸村になってみてください。
大阪の陣で真田幸村が使ったとされる、鹿の角が付いた甲冑の人も現れるらしい。
って「桜」はどーしたの?
上田市の観光HP より確認されて、
是非とも、歴史と桜を堪能してくださいね。
シャッターマンの方の腕は一流でした。
是非、週末は上田へ GO!
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箕輪城
周囲を山や川に囲まれ天然の要塞として、日本百名城に数えられる。
初陣の武田勝頼を先頭に、武田信玄の猛攻を受け落城し、
武田信玄の関東侵攻の拠点となり、真田幸隆、内藤昌豊などが城代を努めた。
武田家滅亡後、北条氏政の弟の氏邦が侵攻。
織田信長が、信濃を平定すると、家臣の滝川一益が侵攻したが、
本能寺の変で織田信長が討たれると再び、北条氏邦、氏直の手に落ちた。
豊臣秀吉が小田原侵攻をすると、前田利家、上杉景勝に攻められ開城。
徳川家康に関東八州が与えられると、徳川四天王の、井伊直政が12万石で領した。
井伊直政が、高崎に移封されると、廃城となった。
と言うように、有名な戦国武将がこの場所立ったのだと思うと感激します。
廃城の後の本丸は、そのまま時計が留まったよう。
だがしかし、武将達が去り戦が無くなった後
この場所には、キツネが住むようになったという。
つづく
がんばろう! 日本。再生のその日まで。
忍城
忍城 (埼玉県行田市)
平城でありながら、周囲を沼地で囲まれていたため、難攻不落の城であった。
豊臣秀吉の関東平定の折、2万5千の石田三成勢と農民とともに籠城して戦った。
花咲あきらが、ビックコミックスピリッツで漫画化
近日公開(予定だった)映画、のぼうの城の舞台でもある。
柴崎和泉守 (しばさき いずみのかみ )さん。
この日は、城を守り抜いた当時の家老の柴崎さんが、
おもてなし甲冑隊として登城されていた。
行田市に仕官しているのかな。映画にも(本人として)出演されてます。
酒巻 靱負(さかまき ゆきえ)さんは、折り紙教室を手伝い、
城内では甲冑着用体験、(子供用もあったよ)など盛りだくさんの行事が・・
がんばろう! 日本。出来ることから始めます。