ぐんまで、内村鑑三は、こころの灯台 として親しまれています。知らない人はいません。
式があるときは見学できません。でした。
時間があったら読んでみてください。佳く錬られた名文だと思います。
もしも私が、人間の、そして御使いたちの言葉によって語りはしても、
しかし愛をもってはいないなら、私は鳴り響く銅鑼(どら)か、あるいは甲高く鳴るシンバルと化してしまっている。
またもしも私が預言をなし、さらにすべての奥義とあらゆる知識とをもってはいても、
またもしも私が山々を移すほどのあらゆる信仰をもってはいても、しかし私が愛をもってはいないなら、私は無である。
たとえ私が、私のすべての財産を分け与えたとしても、
またもしも私が、私のからだを焼かれるために引き渡しても、
しかし私が愛をもってはいないなら、
愛は ――寛容であり、親切である ――愛は。〔愛は〕妬まず、[愛は]自慢せず、高ぶらず、
ふさわしくない振る舞いをせず、自分自身のものを求めず、苛立たず、悪しきことを企まず、
不義を喜ばず、しかし真理を共に喜ぶ。
〔愛は〕すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛は決して倒れることがない。
しかし、〔それが〕預言であれば、壊されるであろう。
異言であれば、途絶えるであろう。知識であれば、壊されるであろう。
なぜならば、私たちは部分的に知っている〔にすぎない〕からであり、
そして部分的に預言をする〔にすぎない〕からである。
完全なものが到来する時には、部分的なものは壊されるであろう。
コリント人への手紙 第一 13章
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