12月9日
長女がコート。冬の外套。欲しいと1ヶ月前から話してくるのだが
核心の心を揺らしながら話ごまかしたりしていたのだが、今日私の親が
孫に服を買うなら買うと言い。
私と親と娘と三世代で車に乗り服を買いに出かけた。
私は親と大変に仲が悪く、ニュースなどで、50歳の無職の男が
70歳の親に小遣いをせびったが働けと断られ刺した。
ようなニュースが、耳を伝うと心が痛くなる。
殺しはしないが、発狂カウントがトリガーになり、自暴自棄を抱きしめると
もしかしたら、僕も仲間入りを果たすのではないかと、少しだけ喘ぐ妄想をするからだ。
それでも、なるべく怒らず、協力しながら日々を生活しているのであるが
私の父親は、老獪なペテン師のような駆け引きデフォ所持しているので
その雰囲気を僕に対して見え隠れさせる行為が偶にあると、諦めと
私が背負わされた保証人的な枷どこ吹く風のような気に触れて、肺が冷える。
私も悪いのだ。私もダメな人間だからと必要以上に言い聞かせ
(等身に自分を見切ることも可能なのだが目が泳ぐ自分を包括する術が無い)
なんとか象る何をあやふやな自分を。連綿。
長女がしまむらよりは、小洒落た程度のお店で
知らないモデルのポスターが着飾るポスターのコートを買う。
レジで金銭的なやりとりをしている時、不意に私の父親が、そのおしゃれな店員に
革ジャン私着ても変じゃないべかとしきりにしゃべっていた。
彼女はお客様ならお似合いですよと言った。
12月10日 チキンスキン4.
始めヒロヤーが素晴らしすぎてウットリする。
彼にしか作り出せない、独特の世界観が広がり
徐々に観客を侵食する遊星からの物体H。
お客さんの空気とか全く意に介さない核心が
彼の肉体に宿っている。
二番目寧さん
カントリーや60、70年代の洋楽ロック弾き語りを
当時の世相や、曲の歌詞の意味合いの説明など盛り込んで
歌う。カウボーイハット。終始場が、優しい雰囲気に溢れているのは
寧さんの柔らかい人柄も含めての、頷けるミュージックだから。
彼の青春時代や現実今も含めてのストーリーが見え、それが
嫌味や不快にまったくならず、もっと時代の空気を
寧さんのパフォーマンスを通じて視点を知りたくなる。
のは、彼の人柄のなせる業かも。
打ち上げとかで音楽話をしたいなと。
三番目 少してーげーず
てーげーずのボーカルの方が、来週のライブの宣伝で一極披露。
先月クォーターてテーげー図鳥のライブ見たときに聴いた、すげえカッコ良い曲を
披露。掃き溜め渡辺君がブルースハープでちょっと絡んでの演奏。
初期のRCサクセションみたいな、冬の初めに似合う切ない曲。
お客さんの、拍手とか盛り上がりとか一曲で持っていく素晴らしさ。
そして僕の朗読。
アイパッド使って、なんらかの音を流し、詩の朗読を結構淡々と朗読。
詩のリーディングは、言葉に宿るポエジーみたいなものにあこがれているので
淡々と酒場で読み上げる詩の雰囲気に自分をてきとうに託して読む。
バンドのタイミングでの抑揚や、叫びなどはなかったのだけど、言葉のみを道しるべに
朗読。孤独なふりをする。世界のブローチ。この町の全て。灯す。この世界に遺体。
挑む気持ちは、1955年サンフランシスコ気取りの、詩が持て囃されている最中の高揚内部。
ビックリ箱的な演出もまあまあ無く、カクテルトムクルーズやブコウスキーマットディロン気取り
きっとあと3年先位の、青森で詩の朗読が根付いた酒場の僕だったのかも。
もっとやること多々ある。そのために。
そして、今日はもっと飛び道具的に、おとなしくなく変にやっても良かったのかなと鑑みる。
エイイチロウ
アベレージは越えるフォークギターで歌う歌手。
歌もうまく。MC上手、人柄も良いし、曲も考えて作ったり
披露している。バンドでやるのみたいな、この完成度で、彼の世界観
でバンドっていうのは、中々観ないから、さわやかな美意識がとがったバンド
って青森には中々居ないからみたいな。
最期の新曲かっこよかった。あの曲だけバッキングで作るメロディ感とか
どこか都会的な傷心さが、エイイチロウさんらしさ真骨頂でこの感じを
もっと前面に押し出した曲を作っていけば良いかなと思った。
来年の24時間テレビで歌ってそうなやさしい雰囲気。
らりへたれ福原
mcをメモってたのか、それを読んでみたりするのが
天然であってほしい。空気を読まない読めないのが彼の
一種の強みだと思うので、そこはドンドンおして欲しい。
福原君は脳内の何かが欠落していて、それを埋めることによって
悲しみや悔しさのようなネガティブな内部の吐露を披露する。様な気がする。
彼は、ひっくり返る才能を持っていると思う。しかもそれは一瞬しか
垣間見れないものだと思うのだけど、僕はそういう変な人間が好きなので
是非もっとオリジナルの曲を作って欲しい。。
意味があるのだ。彼の選択してたどり着いた場所に。
表現活動の感動なんてコンスタントなアベレージは邪魔なだけだ。
むしろ、悲壮を背負うものの常にシュプレヒコールでは無く
踏みつけられた者の一瞬の咆哮絶唱のほうが切なくて、僕は好きだ。
それを芸術家は常に捕らえないと駄目かもしれないけど無理だ。
だからこそ僕は未成熟のだめ人間がすきのだだ。
完成していないって事は
ある意味、完璧ってことなのだ。
自分の内部のゆりかごを開示しすぎないのがいいのかもしれないす。僕は実は異化ほどで作用する異質感をそれほど持ち合わせていないのかも知れないです。センスだけで内実を吐露して戦いている棒人間みたいなものです。
ある意味コズミックかもしれないです。
女体は宇宙と連結しているから福原氏は
女好きっぽいので嬉しいです。