五十路男の失敗日記

生涯独身男の青春の挽歌

未来の白地図

2013年04月18日 | 雑記
最近、予期不安と思われる不調に見舞われることが多いです。
音楽を聴いているとき、トイレで座っているとき、食後、座って休んでいるとき。
急に襲ってくる吐き気、発熱、動悸etc.
結構辛いのですが、これ以上薬は増やせないし…自分の身体をコントロールする術を
身につけるべきだな。。
「なんか駄目だな」と頭の片隅で思ってしまったら、大抵駄目という。

過去のこと、とくに学生時代のことを思い出すと、発作的なモノが起きやすい感じ。
良い思い出はすぐに遠くなってしまうけど、辛い思い出は手をのばせば届くところに
いつまでもあるものです。

過去を懐かしむことは、時には明日を生きるエネルギーになる。
でも、それで具合が悪くなってしゃがんでしまうのでは、意味がない。
たぶん私にとって過去は、まだ生々しすぎるのだろうと思う。
消化不良というか、エネルギーに出来るほど昇華していない…。。


主治医に、複数の不安障害が重なっているから治癒困難、これからの人生いかに
苦痛を取り去っていくか…とか言われると、絶望的な気分になるのですが。

最近、Twitterで「手段を諦めても良いが、目的は諦めないこと」という意味の
ツイートを見かけました。

絶望したらおしまいなのです。
何の根拠もなく希望を持つのは難しいけれど、「いずれはああなりたい」くらいの
希望は持ち続けていたい。

今はまだ、その希望を叶える方法がわからないかもしれない。
でも、生きていくうちにその方法が見つかるかもしれない。
もしかしたら一生、叶わないかもしれないけど、それは別。

小学生の頃(不登校で苦しんでいた頃)、「ああなりたい」という希望は持っていました。
そして、17歳までに大体、叶えることが出来た(今より健康だった)。
若かったから…とも言えますが、40歳でもそういう希望は持っていた方が、自然とそちらへ
引き寄せられるような気がする。。

本当は、希望を叶える方法を知っているのに、私の脳がそれを思いつかないように
抑え込んでいるのかもしれない…とも思う。
叶えるための苦痛は、並大抵のものではないだろうから。

もしかしたら、より苦痛の少ない方法が、生きて行く過程で見つかるかもしれない。
あるいは、苦痛を苦痛と感じにくくなる…神経が鈍くなる時が来るかもしれない。
一度駄目だったからといって、諦めることはない。
別に良い方法があるかもしれない。
目的を達せられればラッキーだということかな。その程度の希望。

だから、私は生きる。
人間の屑かもしれないけど、生きる。
嫌でもいつかは死ぬのよ。
だから、食えるときに食って、生きられる間は(儚いながらも)希望を持って生きる。

…というような、何だか思春期のイカ臭い少年のようなことを「マリア様がみてる」第4期の
DVDを見ていて思ったのであった(それがオチかいオッサン